この積雪で私も帰宅時の交通機関の混乱に巻き込まれまして、ふと歴史上で雪が関連した事件について皆さんにお伝えしたいと思いました。幾つか皆さんも思い浮かべるものがあると思います。「赤穂浪士の吉良邸討ち入り」、「八甲田山雪中行軍遭難事件」、「あさま山荘事件」、「二・二六事件」などが挙げられるのではないでしょうか。
この中から今回は「八甲田山雪中行軍遭難事件(以下『八甲田山事件』)」について話していきたいと思います。皆さんの中にもかつて映画化やドラマ化、小説化されたものをご覧になってご存じの方やご出身地が近く、スキーや温泉(酸ケ湯温泉、八甲田温泉)に行かれたことがあるという方もいらっしゃることと思います。
八甲田山は青森県にある標高1,585mの山で、正式名称は「八甲田山・大岳」と呼ばれています。この八甲田山・大岳で1902(明治35)年1月23日~2月2日(捜索も含めて)に近代の登山史における世界最大級の山岳遭難事故が起こりました。
そもそもどうして雪中行軍が行われたのかは、1894年に行われた「日清戦争」において、冬季寒冷地での戦いに苦戦した為、更なる厳寒地での戦いとなる対ロシア戦を想定し、それに向けての準備であり、日本陸軍にとって冬季訓練は喫緊の課題でした。
訓練には、青森歩兵第5連隊(210名)と弘前歩兵第31連隊(37名)と新聞記者1名が参加しました。結果は青森連隊が遭難し210名中生存者11名(生存率5.2%)、弘前連隊(記者含む)は全員無事帰還しました。
遭難の原因は幾つか挙がられています。「(1)気象条件」「(2)入山する際の装備」「(3)現場指揮系統の混乱」「(4)予備知識不足」「(5)厳冬期の八甲田に対する認識不足」等になります。この中で(1)(2)(4)(5)は関連性があり、現在でも冬山に入山する際には事前準備として絶対必要なことになりますね。
気象予測の大切さは1895年から始まる野中到(気象学者)の富士山気象観測所の設立から中央気象台へと引き継がれて発展していきますが、事故当時も陸軍本部は対ロシア戦を見据えて、その重要性を充分に理解していました。ただ、地方まではそこまで認識されていなかったのかも知れません。
気象条件に関する事柄だけでなく指揮系統の統一化、一本化も重要であると思います。現代でも上司の指示命令が曖昧だったり、朝令暮改では指示を受けたものは混乱し、組織は瓦解してしまいます。110年以上前の八甲田山事件ではありますが、現代の組織人にも教訓として活かされるべき点が多くあり、忘れてはならない事件であるかと思いますね。

八幡太郎 (歴史ライター)

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