皆さん、こんにちは。前回に引き続き今回も『映画 関ヶ原』に関わる人物について述べていきたいと思います。前回の続きで、石田三成についてのエピソード(逸話)、今回は三成の莫逆の友・大谷吉継との友情の話です。

石田三成には莫逆(ばくぎゃく)の友【親友と同義】として、「刑部少輔・大谷吉継」と「山城守・直江兼続」の2名が挙げられます。このうちの大谷吉継とのエピソードになります。秀吉が主催する茶会で、一口ずつ飲んで次へ茶碗を回すという回し飲みが行われました。

 

ハンセン病を患っていた吉継は飲む振りのみで、茶碗を回そうとしたが、顔から出た膿(うみ)が茶に落ちてしまった。飲む順番が吉継のあとの諸大名は茶に口を付けるのを嫌がり、飲む振りだけで茶碗を回していったが、三成はためらわず茶を飲み干した。吉継は感動し、それ以降二人の間には一層深い友情が生まれたという。この話しは三成なりの計算が見え隠れしていますが、人を外見などで判断せずその人の本質や人となりを見ていた一例なのかもしれないですね。

 

豊臣家臣団の中には加藤清正や福島正則などの「武断派」と三成や大谷吉継などの「文治派」という派閥がありました。現在伝えられている歴史ではこの両派閥は仲が悪く、これが関ヶ原の遠因になっていると言われています。しかし私は違った見方をしています。少年の頃から同じ釜の飯を食べ、一つ屋根の下(長浜城など)で暮らしてきた仲間としてお互いが自分たちに無い才能をもっていることへの嫉妬と意地もあり、それが遠因なのではないかと考えています。

 

関ヶ原の戦いが行われた場所は、五街道の一つである東山(中山)道の「不破の関」があった所です。ご存じの方もいるかと思いますが、この場所でもう一つ「天下分け目の戦い」が行われていました。それは「壬申の乱(672年)」です。その内容はここでは省略させて頂きますが、その戦いの勝者である天武天皇(大海人皇子)が陣を張った場所で全兵士に名産の桃を配って勝利したと言われています。戦後その場所は「桃配山(ももくばりやま)」と呼ばれるようになりました。家康はその故事にならい、最初の陣を張って勝利したのがこの「桃配山」でありました。

 

良い縁起を担ぐのは昔も今も変わらないなと思わせる話ですね。家康は関ヶ原の戦いまでに大小数多くの戦いに参加し、「海道一の弓取り」と呼ばれ、勝利をおさめてきたこの当時最強の武将です。その家康でさえ、天下を取る為の野望において、この関ヶ原の戦いが重要で、絶対に負けられないものであった為に、藁をも掴む思いで故事にならったのかもしれないですね。