先日、弊社主催のオーナー様限定交流会・カルチャーセミナーが開催されまして、そこで東京大学名誉教授・歴史学者の山内昌之先生に「世界史と幕末明治維新 150年目の教訓」と題して講演をして頂きました。
世界の潮流と幕末、明治維新の関連性と必然性を分かり易く話して頂き、知識が点から線、面や立体的になっていくのを実感していました。
山内先生、ありがとうございました。定期的にこういったセミナーを開催していますので、ご興味のある方は次回、是非ご参加してください。
前回、本能寺の変についてお話しさせて頂きましたが、今回は7月に起こった出来事についてお話しします。
その出来事とは皆さんも歴史の時間で一度は習ったであろう、「ペリー来航」です。1853(嘉永6)年6月3日<7月8日>、私の地元の神奈川県横須賀市浦賀に上陸しました。
ペリー来航以前にも日本の各地には西洋列強と呼ばれる国々の船が現れていて、幕府も慌てて海防政策を強化していました。
幕府の鎖国政策により日本は260年余り一部の外国との交流だけで島国という最大の利点を活かして幕府は続いていました。
しかし工業技術と船舶技術の飛躍的な向上により、圧倒的な戦力の一部を明示、戦艦数隻で日本はあっさり開国してしまいます。
但しこれは、アヘン戦争による隣国清国の現状を認識し影響していたと思います。また戦っても勝てない、日本を守れないと判断した結果だと思います。
後日の結果として、薩摩藩が英国との戦いや長州藩が四か国連合(イギリス・フランス・オランダ・アメリカ)による戦いで完膚なきまでに負けています。
この艦隊を率いていた「マシュー・カルブレイス・ペリー(以下「ペリー」)」は、蒸気船を主力とする海軍の強化策を進めると共に、士官教育にあたり、「蒸気船海軍の父」と称えられ、海軍教育の先駆者と呼ばれています。
またペリーには兄が二人いて、次兄の「オリバー・ハザード・ペリー」はアメリカ海軍の英雄と呼ばれています。
今回調べてみて初めて知ったことが多く、『マシュー・ペリー』と命名された補給艦が2011年の東北大震災の救援活動に参加していたこともその一つでした。
ペリーが力で開国した日本にとって、その後の幕末から明治にかけて、日本の政治や文化、教育等に大きな足あとを残した人物をもう一人挙げてみたいと思います。
その人物は「Boys,be ambitious」(少年よ大志を抱け)の名言で有名なウィリアム・スミス・クラーク(以下「クラーク博士」)です。札幌農学校(現・北海道大学)の初代教頭で、自然科学一般を英語で教えていました。
実はこの名言には続きがあり、全文は「Boys, be ambitious like this old man」(この老人<=クラーク博士>のように、1日1日を精一杯悔いの無いように生き、あなたたち若い人も野心的であれ)というものであったと言われています。
伝わっている名言は、クラーク博士が言ったことを教え子たちが記憶を辿って記録しているものなので、様々な説が存在しています。
私の勝手なイメージだったのですが、クラーク博士は札幌農学校で最低でも2年から3年位は教鞭を取られていたのではないかと思っていましたが、実は当時マサチューセッツ農科大学の教授であって、新島譲<にいじまじょう>(同志社大学の創設者)の紹介により、1年間の休暇を利用して札幌農学校に来ていたこと、その教鞭を取られていた期間も8か月間という短期間であったことを今回初めて知りました。
当時の教え子やその後の札幌農学校、北海道大学、日本や北海道に与えた影響力が強かったからそう思ってしまったのでしょうか。
クラーク博士は札幌を去った後、アメリカで知人と鉱山会社を設立し、当初は大きな利益を得たのですが、その知人が横領を繰り返した後、逃亡してしまいます。
やがて会社は倒産し、破産をめぐる裁判や心臓病に晩年は悩まされ、失意のうちに59歳で亡くなりました。
しかし、帰国後札幌での生活を忘れることなく、死の間際に「札幌で過ごした8か月間こそ、私の人生で最も輝かしい時だった」と言い残したと伝えられています。
クラーク博士が残したものを今も私たちは見たり、聞いたり、感じることが出来ます。北海道や北海道大学の方々にとっては生活の一部であり、当たり前のことなのかもしれないですが、改めて調べてみるとその偉大さを感じてしまいますね。