皆さん、こんにちは。先週末から今週にかけて気温の上昇がこの時期としては観測史上最高となっています。まだ6月であるのに35度以上が多発し、群馬県伊勢崎市は6/25、6/26で40度超えとなりました。一方、能登地方では6/19震度6弱、6/20震度5強と連日の地震が起こり、能登地方の地震と同時期に九州では梅雨前線が停滞し、記録的な大雨に見舞われていました。コロナ感染者数がまた増加しつつある中、気温上昇は熱中症の危険性を高めています。こまめな水分補給は勿論のこと、体調には充分に気を付けるようにしてください。

さて、日本の歴史において、ターニングポイントになった戦いが数多くありますが、今回からその戦いにスポットを当てて、その戦いに関わった人物等のエピソードを述べていきたいと思います。中には皆さんの地元にも関わった戦いもあるかと思いますので、宜しくお願いします。

第1回目に紹介するの戦いは、丁度絶賛放送中の大河ドラマに間接的に関わっている戦いである、「前九年の役・後三年の役」の内の「前九年の役(ぜんくねんのえき)」になります。元々、前九年の役は河内源氏・源頼義(みなもとよりよし、以下「頼義」、頼朝の祖先)の奥州赴任(1051年)から安倍氏滅亡(1062年)までに要した年数から「奥州十二年合戦」と呼ばれていて、『愚管抄(ぐかんしょう)』や『古今著聞集(ここんちょもんしゅう)』などにはその名称で記されています。ところが、『保元物語(ほげんものがたり)』『源平盛衰記(げんぺいせいすいき)』『太平記』などでは「前九年の役」の名称で記されていて、それが一般化して現在に至っています。戦乱自体が9年間であったからという説によるものらしいです。

開戦当時まで、陸奥国(青森県・岩手県・宮城県・福島県)の土着で、俘囚・有力豪族の安倍(あべ)氏は陸奥国の奥六郡(岩手県北上川流域)に柵(城砦)を築き、半独立的な勢力を形成していました。この地域は平安時代の初め、征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)によって8世紀末から9世紀初頭に陸奥国胆沢(岩手県奥州市)で活躍した蝦夷(えみし)の族長とされる阿弖流為(あてるい)が討伐されて、古代日本の律令国家(朝廷)に組み込まれた地域であり、地域的に朝廷から遠かった為、その力が及びにくかったことも影響して独立独歩の気概が常にあったのは歴史が示しています。そもそも朝廷は時間を掛けて徐々にその地域の有力者を話し合いや政略結婚、武力などで臣下に加えていった歴史があります。有名な「日本武尊・倭建命(ヤマトタケル)の東征」もその一つです。

「日本武尊の東征」で有名なエピソードは現在の交通手段とはその当時は異なり、海上での移動も盛んで、現代の人が「東海道」と聞くと東京(日本橋)が出発点の街道のように考えてしまいますが、古代の東海道は畿内から東に伸びる、本州太平洋側の中部を指したものであり、伊賀国(三重県西部)から常陸国(茨城県)に至る行政区画としての意味と、道としての意味がありました。

相模国から上総国に船で渡る際に走水(神奈川県横須賀市)の海(東京湾)の神が波を起こして、日本武尊の船は進退窮まってしまいました。そこで后(きさき・妻)の弟橘比売(おとたちばなのひめ)が自らの命に替わって入水すると波は自ら凪いで、一行は無事に上総国に渡ることができた。それから日本武尊はこの地(君不去(きみさらず)、現在の木更津市と言われている)にしばらく留まっていました。

話しが横道にそれてしまいましたが、以前から朝廷は命令をきかない蝦夷に対して幾度も討伐の兵を送っていました。「前九年の役」は「鬼切部(おにきりべ)の戦い」「阿久利川(あくとがわ)事件」「黄海(きのうみ)の戦い」「小松柵の戦い」「衣川関の戦い」「厨川の戦い」など幾つかの大きく重要な戦いがあり、それを総称した戦いで、「鬼切部の戦い」で一旦休戦になっていましたが、その後再開されます。その再開を私は頼義の陰謀であると考えています。頼義は父である源頼信(みなもとのよりのぶ)が関東を支配下に収めたように、豊かな奥州を自身の支配下にすべく様々な謀略を駆使し、安倍一族を挑発していきました。

頼義の陸奥守の任期終了間近、多賀城へ帰還中に阿久利川河畔で野営をしている際に、何者かに夜襲を受け、家臣が殺害されました。これが「阿久利川事件(あくとがわじけん)」です。この事件で頼義は安倍氏の棟梁である安倍頼良(あべよりよし)、<後に頼義と同名の為に頼時(よりとき)に改名>の息子である貞任(さだとう)に出頭を命じますが、頼時はこれを拒否したことから戦いに突入します。朝廷も頼時追討の宣旨を下し、「前九年の役」は再開されました。頼時の娘を妻に迎えていた藤原経清(ふじわらのつねきよ)と平永衡(たいらのながひら)は共に頼義(朝廷方)について参戦しましたが、永衡が謀反の疑いで頼義に討たれると、身の危険を感じた経清は安倍方に寝返ります。このことで経清の策略と財力は頼義を苦しめることになり、朝廷方は大きく戦力を失い、戦いは泥沼化、長期化します。

長期の戦いの中、頼時は亡くなりますが、安倍氏は降伏することなくむしろあとを継いだ貞任は以前にも増して激しく抗戦します。この貞任が蝦夷の英雄とされていた阿弖流為の再来とも言われていました。一方苦戦中の頼義は朝廷に頼時の戦死を報告し、援軍と兵糧の支援を依頼しますが、朝廷からは音沙汰がなく、頼義自身も「黄海の戦い」で壊滅的な敗北をして討ち死にしたという誤報が流れるほどでしたが、「八幡太郎」の通称で親しまれる嫡男・義家(よしいえ)の活躍により九死に一生を得たほどでした。

「黄海の戦い」の勝利で勢い乗った安倍氏は奥六郡以南に勢力を伸ばし、朝廷の赤札に代わって経清の白札で税を徴収するほどになっていました。頼義は論功行賞もされず兵や兵糧の補充もない厳しい状況になりましたが、兵の補充に関東以南の武士に働きかけ源氏の私軍を編成し、安倍氏と並んで勢力を誇っていた出羽国(山形県・秋田県)の俘囚・清原氏に接近し、様々な贈物を行い、参戦をさせました。清原氏の参戦で朝廷方の兵力は倍以上に膨れ上がり、「小松柵の戦い」「衣川関の戦い」で勝利し、安倍氏は敗走を重ねて最北の重要拠点にして本拠地の厨川柵(岩手県盛岡市)の決戦で、頼義は勝利します。

総大将の貞任と朝廷方から寝返った経清が頼義の面前に連れてこられ、貞任は深手がもとで亡くなりますが、経清は苦しみを長引かせるため、錆びた刀で鋸挽き(のこぎりびき)によって斬首されました。寝返っただけでなく、朝廷の赤札を無視して国印もない私的な白札で税を徴収した経清に対する頼義の恨みは相当深かったと言われています。結果としてこの戦いの後、頼義は陸奥守ではなく、伊予守(愛媛県)に任じられて奥州を支配しようという頼義の野望は朝廷によって打ち砕かれました。しかしその野望は義家に引き継がれていきます。それが「後三年の役」ですが、それは次回お伝えします。 「後三年の役」のあとの奥州は経清の子供である清衡(きよひら)とその子孫がその後3代に渡って、栄華を極め繁栄する奥州藤原氏を築き、平泉を中心に朝廷や時の権力者である平清盛や源頼朝も一目おく勢力となります。古くは阿弖流為や頼時が作りたかったのは蝦夷による蝦夷の為の国・共同体であり、それが結実したのが奥州藤原氏を中心としたものであったのかも知れませんね。今の大河ドラマも坂東武者が坂東に自分達の国を作りたくて、頼朝という神輿を担いだのではないかと思っています。時代は変わっても考え方は同じであったのかもしれないと考えると凄く面白いですね。