さて、今回は6月の事件という訳ではなく、6月に亡くなった歴史上の人物について述べていきたいと思います。有名無名を問わず歴史上で6月に亡くなった人物は数限りなく居ますが、今回は「竹中重治(たけなかしげはる)」についてです。併せて重治の関わった人たちについても述べていきたいと考えています。「竹中重治」と聞いてこの人物についてご理解出来る方はこの人物が活躍した時代をよくご存じの方なのかと思います。
一般的には「竹中半兵衛(たけなかはんべい)」という名でこの人物を皆さんは認識しているかと思います。半兵衛は天文13年(1544年)「美濃の蝮(まむし)」と呼ばれた齋藤道三(さいとうどうさん)で有名な美濃齋藤氏の家臣で、美濃国大野郡大御堂城(岐阜県揖斐郡大野町)城主・竹中重元(たけなかしげもと)の嫡男として生まれました。当時、戦国の三英傑はそれぞれ織田信長10歳、豊臣秀吉7歳、徳川家康2歳でした。
半兵衛が一躍名を近隣に轟かせたのは、20歳の時に主君・斎藤龍興(さいとうたつおき・道三の孫)が酒色に溺れて政務を顧みなくなり、一部の側近だけを重用した為、国全体が乱れてしまったのを憂い、数人の家臣だけで美濃齋藤氏の本拠地である「稲葉山城(いなばやまじょう・現在の岐阜城)」を占拠してしまいました。当時の稲葉山城は難攻不落の山城と言われ、隣国尾張の織田信秀(おだのぶひで・信長の父)の頃から何度も攻め込んでいるのですが、上手く攻略出来ていない状況でした。そんな時に家臣が主君に逆らって数人で稲葉山城を落としたのですから、織田信長が是非自分の家臣に欲しいと思ったはずです。
皮肉なことですが、半兵衛が稲葉山城を攻略したことが、信長の美濃侵攻を本気にさせてしまうことになり、結果として龍興は城を追われて美濃齋藤氏は没落していきました。一方、半兵衛は美濃齋藤氏を去り、一時は浅井長政(あざいながまさ)の客分として近江国(滋賀県)に領地を与えられていましたが、約1年で辞して故郷に戻って浪人をしていました。やはり信長は半兵衛を家臣に加えたかったのでしょう。美濃攻めで頭角を現した木下秀吉(豊臣秀吉)に勧誘を命じ、三顧の礼で秀吉は半兵衛を誘ったと伝わっています。この部分は中国の三国時代、蜀の劉備玄徳が諸葛孔明を自分の軍師に迎える際に行った故事を後世の人が結び付けているように思えます。半兵衛が孔明と同じ「軍師」であったからかもしれないですね。半兵衛はこの時秀吉の天性の才能を見抜き、信長に直接仕えることを拒絶し、秀吉の家臣となることを了承したとされます。
半兵衛は一時期、浅井家に居たので「信長包囲網」が後に敷かれた際には浅井家家臣団との人脈を利用して、調略活動で活躍しました。後々のことになりますが、秀吉が中国方面軍の司令官として宇喜多(うきた)氏や毛利(もうり)氏との戦い、更には徳川家康との小牧長久手の戦い、後北条氏との小田原征伐でも数多くの調略を行っていました。秀吉が調略を多用し、得意としていたのは半兵衛の影響であったと思います。
半兵衛に関わる有名なエピソードとしては、秀吉の「両兵衛」「二兵衛」と呼ばれた黒田官兵衛孝高(くろだかんべいよしたか)とのものがあります。秀吉が中国方面軍の司令官として毛利攻めをしている際に同僚であった荒木村重(あらきむらしげ)が謀反を起こして、官兵衛が村重に帰順するように単身で村重の有岡城へ向かいました。その際に城内で捕縛・監禁され外部との連絡を断たれたため、信長は官兵衛も謀反に加担し裏切ったと思い込み、官兵衛の嫡男・松寿丸(しょうじゅまる 後の黒田長政・くろだながまさ)の殺害を秀吉に命じました。この頃の信長は家臣の裏切りや謀反が連続して起こっていて、官兵衛がそういう男ではないことを分かっていたにも関わらず、疑心暗鬼になっていた節もあったかと思います。半兵衛は官兵衛の軍師としての才能と松寿丸が将来必ず秀吉の重臣として羽柴(はしば)家に無くてはならない者になると信じ、偽の首を信長の元へ届けるように秀吉に伝え、松寿丸を自身の領地で引き取り、家臣の屋敷で匿いました。後に官兵衛が救助されて裏切っていなかったことが分かった時の信長は凄く困ったはずです。しかし半兵衛の機転のお蔭で松寿丸は官兵衛の元に戻っていますし、信長は半兵衛に頭が上がらなかったでしょうし、罰の悪そうな表情を浮かべたのではないでしょうか。想像すると面白いですよね。
官兵衛はこのことに大変感謝し、竹中家の家紋を貰い受けて以後大切に使っていますし、長政は父親よりも半兵衛を生涯尊敬していたと伝わっています。また秀吉と半兵衛の関係性は「主君と家臣」というものではなかったように私は感じています。秀吉にとって半兵衛は「師匠・師父」といったものだったのではないでしょうか。年齢は秀吉の方が上ですが、尊敬の念を持って接していたと思います。まだまだ自分の近くで助けて欲しいと考えていたはずで、中国攻めの陣中で亡くなる際には京都で養生するように戒めていたが、「陣中で死ぬことこそ武士の本望」と断ったそうです。ここにも前回少し触れた「葉隠」の精神、「武士道とは死ぬこととみつけたり」が出てきます。やはり戦国時代の武士には共通の認識だったのでしょうね。またこの当時の秀吉の家臣への接し方や戦い方が後年のものとは違っているのも特徴的なことです。三木城兵糧攻めや備中高松城の水攻めは半兵衛が授けた策と言われていますし、「戦わずして勝つ」「極力犠牲を出さずに降伏させる」という戦い方が半兵衛の基本的な戦略であったかと思います。
最後になりますが、半兵衛によって命を助けられた長政は、関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍に属して、半兵衛譲りの調略を駆使して数多くの西軍の武将を裏切らせ、東軍を勝利に導きました。その恩賞として家康から筑前国名島(福岡県福岡市東区名島)に52万3000余石の領地を受け、福岡藩を立藩しました。この地には古来より「博多」という地名があり、中国大陸や朝鮮半島に向けた玄関口として発展していました。長政が黒田家ゆかりの備前国邑久(おくぐん)郡福岡という地名から新たな城を築いた場所を「福岡」と命名しました。この結果、現在でも続いている「福岡と博多」の地名の争い(市の名称や駅の名称など)の原因を作った張本人は長政だったのでした。 長政が調略ばかりの武将ではなく、福島正則(ふくしままさのり)や加藤清正(かとうきよまさ)等とともに豊臣家では「武断派」と呼ばれて、戦いの際には家臣の先頭に立って危険な最前線に立っていました。このことは父である官兵衛から大将の振る舞いではないと度々怒られていたそうです。関ヶ原の戦いでは調略を行う一方で、鉄砲隊を率いて石田三成(いしだみつなり)の家老で猛将と呼ばれた島左近勝猛(しまさこんかつたけ)を討ちとった勇敢な武将であったのでした。