秀家と豪姫
皆さん、こんにちは。4月から続く「緊急事態宣言」により、今回のゴールデンウィークは別名「ステイホーム週間」と名付けられて、自宅での家族や自分自身と向き合う時間になっていました。各自が様々なことに取り組んだ時間でもあるのですが、一方でとても苦しく辛い時間を過ごされた方々もいらっしゃったことを認識していかなければならないことを忘れないでいきたいと思っています。これからのそれぞれの心掛け一つがこの事態の終息に向かっていくことを考えながら生活していかなければならない、ラグビーワールドカップの際に「ONE TEAM」という言葉が浸透したと思いますが、まさに今、国民全員が「ONE TEAM」になってこの事態に立ち向かい、克服する為の行動をすべきなのではないかと思いますね。

さて今回は、5月に亡くなった歴史上の人物について述べていきたいと考えています。その人物とは「豪姫(ごうひめ)」です。実は同時期に同じ「ごう」と呼ばれた方がもう一人居ました。歴史に詳しい方ならばご存じの女性であると思います。織田信長の妹、お市の方の三女で、豊臣秀吉の側室・淀の方の妹、徳川幕府2代将軍徳川秀忠の正室「お江」の方です。今回お伝えする豪姫は後の加賀(石川県金沢)100万石の藩主である前田利家(まえだとしいえ)とその正室まつとの子供で、豊臣秀吉の養女でもあります。この方は61歳で亡くなっているのですが、人生の前半生を何不自由ない生活をしていましたが、後半生は夫である宇喜多秀家(うきたひでいえ)が関ヶ原の戦いで西軍の副将として戦い、敗れた後に八丈島へ流罪になった為、実家に戻って細々と生活をしていました。

現在放送中の大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公である明智光秀や織田信長、帰蝶(きちょう・濃姫)とは世代が違うので、豪姫が今回の大河ドラマで出て来ることはないかと思いますが、光秀の娘である「玉(たま)」、別名ガラシャとは関わり合いが充分にあったと考えられます。共に嫁いだ夫が豊臣秀吉に仕えています。ガラシャの夫は「細川忠興(ほそかわただおき)」という人物で以前、このコラムでもガラシャについて述べた際にエピソードを幾つかお伝えしたと思います。豊臣政権は秀吉と正室である寧々(ねね)の人柄から夫人同士の行き来は活発であったと思われますし、寧々とまつは家臣を家族と考え、とても大事にする夫人であったと言われていました。そんな二人の母親に育てられた豪姫もおそらく自由に同僚や家臣の夫人との行き来をしていたのではないかと思われます。

豪姫は1574年に信長の家臣である前田利家の4女として生まれました。幼少の頃にかつて隣人であった木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に子がなかったので、養女となります。秀吉の活躍に併せて豪姫も長浜城、姫路城と生活の場を移していきます。秀吉夫婦には実子はなく、全てが養子や養女、猶子(ゆうし)でしたが、とりわけ豪姫は夫婦の寵愛を一身に集めていました。その証左として、養子や猶子の中で最も信頼し、将来の豊臣家を支えてくれるであろうと秀吉夫婦が考えた、宇喜多秀家を婿に迎えています。実は秀吉が後に生まれる秀頼の後見として力になって豊臣家を託したいと考えた養子や猶子は二人いたと考えられます。その一人が宇喜多秀家であり、もう一人が結城秀康(ゆうきひでやす)であったと私は考えています。秀康については、この人の人生もなかなか波乱万丈で、多くのエピソードがあり、私が好きな武将であるので、また別の機会に必ずお伝えしたいと考えています。

この秀家と秀康は同時期に秀吉の元で生活をしていました。私が思うに秀吉の出世スピードと同様、一番豊臣家全体に活気や勢いがあり、また家臣全てが家族としての一体感があった時期ではないかと思っています。そんな時期に多感な年頃で、養父や家臣団の活躍を間近で見てきて、共に豊臣家の成長や苦しみを共有してきたのですから、養家のことを大事にするのは当然の流れではないかと思います。養家があって実家(宇喜多家)があるという考えです。一方で豪姫も養子や猶子だけでなく秀吉の子飼いの家臣となる加藤清正や福島正則、石田三成などの若者とも交流を持つようになっていったと思いますし、同じように豊臣家の成長や発展を間近で感じていたと思います。顔見知り、幼馴染である秀家との婚儀でしたが、根底にある精神は繋がっていたと考えられます。

夫婦関係は良好で、二男一女をもうけています。頼りがいのある真っ直ぐな人物であった秀家は後に豊臣政権の五大老と呼ばれる最高意思機関の一員となりますが、これにも秀吉の多大な期待感が伺えます。五大老の他メンバーは1598年当時、徳川家康(53歳)、前田利家(59歳)、毛利輝元(45歳)、小早川隆景(65歳)<上杉景勝(42歳))>という年齢構成であったのですが、実は秀家は若干26歳でした。この年齢だけを見ても戦国の荒波や生死のやり取りをギリギリのところで幾つも乗り越えてきた、海千山千の戦国大名であった4人古強者と対等に渡り合って貰いたい、渡り合えると思えると人を見ることに関しては稀代の天才であった人たらしの秀吉の眼鏡に叶った人物であったのかと思いますし、秀頼を守って貰いたい、守り抜ける人物であったと思わせる人物であったのではないかと思います。実際に関ヶ原の戦いでは直前のお家騒動(宇喜多騒動)によって重臣が何人も離反していた中で、西軍を支えたのは宇喜多家の兵の奮戦によるものであり、その兵の忠誠心は秀家の人柄によるものと思われます。因みに後の剣豪として名をはせる宮本(新免)武蔵(みやもと(しんめん)むさし)も16歳でこの戦いに宇喜多家の兵として参戦していますが、戦いの最中は何も出来なかったと後に弟子に語っています。関ヶ原の戦いの局地戦の中でも最も激しいものだったと言われていますから、16歳の初陣の一兵卒では何も出来なくても当然なのかもしれないです。

関ヶ原の戦いの結果については皆さんも良くご存じかと思います。西軍は敗れて石田三成や小西行長(こにしゆきなが)、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)は打首になっています。一方、秀家は島津家の領地である薩摩(鹿児島県)まで落ち延び、その後八丈島に流罪となっています。実は薩摩へ逃れようとする途中、大阪の備前屋敷で豪姫と秀家は数日間を過ごしたと言われています。しかし、これが今生の別れとなってしまいました。二人の息子も秀家と共に八丈島へ行ったのですが、二人の息子とも当然、今生の別れになってしまいました。宇喜多家は領地没収・改易となり、豪姫も実家の前田家に戻ります。豪姫も同行して苦労を共にすることを望んだとも言われていますが、許されず他家へ嫁ぐこともありませんでした。

八丈島に移った秀家親子の生活はその日の食べ物にも事欠く有様だったようで、ある日八丈島の代官に招待された秀家は、握り飯を一つ食べ、残り二つは家に持ち帰り、子に与えたという伝承があります。このような窮状を知った豪姫や前田家は三代藩主・前田利常(まえだとしつね・豪姫の弟)が幕府の許可を得て、1614年から1年おきに米・金・衣類や雑貨、医療品などを送るようにしました。この仕送りは豪姫が亡くなった後も宇喜多家が罪が赦されて、本土に帰還するまで前田家によって続けられました。また、当時前田家に居た、元キリシタン大名・高山右近(たかやまうこん)の影響で洗礼を受けたとも言われています(洗礼名・マリア)。これも秀家や息子たちのご加護を祈る為であったかも知れないですね。しかし秀家や息子との再会を夢に見ながら豪姫は1634年5月23日に亡くなっています。今も本家・宇喜多家(分家・浮田家)はその家系を繋げています。

豪姫が秀吉の異常なまでの溺愛をうけていた幾つかのエピソードをお伝えして今回の話しを締めたいと思います。

1598年秀吉が寧々に宛てた手紙に「男にて候はゞ、関白を持たせ申すべきに(豪が男であれば、関白にしてやるのに)」とか「太閤秘蔵の子にて候まゝ、ねより上の官に致したく(わしの秘蔵っ子なので、おね殿よりさらに高い官位につけてやりたい)」と記されていました。  また、1597年、豪姫が病に倒れました。もともと豪姫はあまり体が強くなかったようですが、医師による病の見立てで「狐が憑いた」らしいと聞いた秀吉は激昂し、なんと稲荷大明神宛に手紙を書いたらしいのです。「備前中納言(秀家)女(豪)に狐が憑いた。なにゆえ魅入ったか、けしからぬことであり、今後二度ととり憑くでない。わしの命に背く場合は、日本中の狐を狩ってしまうぞ」という内容の脅迫文でした。その甲斐あって(?)、幸い豪姫は快復しています。神の使い(化身)であろう狐でさえも豪姫の為ならばという秀吉の気持ちはある意味で凄いなと感じてしまいますね。