さて、今回も前回に引き続き「もしも」シリーズの第2弾をお伝えしたいと考えています。お題は「武田信玄があと10年生きていたら」、またその派生として「弟の武田信繁が生きていたら」もお伝え出来たらと思っています。
皆さんも武田信玄のことは良くご存じのことと思います。戦国時代に甲斐国(山梨県)を中心に信濃国(長野県)、飛騨国(岐阜県)の一部、上野国(群馬県)の一部を支配し、「武田の赤備え」や「武田二十四将」などで有名な戦国最強と呼ばれた武将です。武田家は清和源氏の一つである「甲斐源氏」の嫡流にあたります。常陸国(茨城県)に勢力を広げ、関ケ原の戦いの後、秋田へ転封した佐竹氏もその一族になります。
まず初めに信玄の人生年表を簡単にお伝えします。
年 | 出来事 |
1522 | 甲斐国守護・武田信虎の嫡男として生まれる。 |
1525 | 弟、信繁生まれる。 |
1536 | 元服し、初陣。(本名・晴信) |
1541 | 父を追放。武田家当主となる。 |
1547 | 分国法「甲州法度次第」を制定 |
1553 | 第一次川中島の戦い (1555:第二次、1557:第三次、1561:第四次、1564:第五次) ※第四次川中島の戦いで、信繁、山本勘助等が戦死 |
1559 | 出家し名を「信玄」に改める。 |
1567 | 嫡男・義信を廃嫡し、切腹させる。 |
1572 | 三方ヶ原の戦い |
1573 | 信濃国駒場にて死去 |
1575 | 長篠の戦い |
1582 | 武田家滅亡 |
信玄は武田家の第19代当主です。父の信虎からすんなりと当主の座を譲られた訳ではなく、重臣との総意の元によるクーデターにて信虎を駿河国(静岡県)に追放して当主の座に就きました。これは信玄自身が廃嫡の恐れがあった点もその理由にありますが、当時の筆頭家老であり、信玄の傅役でもあった板垣信方や甘利虎泰以下、家臣一同の総意でもあったので、無事に成功しています。追行された信虎は一旦娘の嫁ぎ先である駿河国に身を寄せますが、その後京に行き幕府の奉公衆として一時期仕えていたと言われています。
歴史に詳しい方でなければ武田家は長篠の戦いで、信長・家康連合軍に負けて滅んだと思われているかもしれませんが、実はその後10年続いていました。更にこの10年では信玄が生きていた時期よりの領土が増えていて、武田家最盛期となっていました。ただ戦国のカリスマの一人である信玄時代よりも家臣団の結束は固くなく、領土を広げることで家臣団を引き留めていたようにも思えます。しかし信玄の後に陣代(じんだい・当主ではなく当主代行のような地位)についた勝頼が愚かであった訳ではありません。
信玄の遺言で「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈めること」、勝頼には「信勝継承(元服)までの後見として努め、謙信を頼ること」、山県昌景などの重臣に対しては「瀬田(滋賀県大津市)に御旗を立てよ」と言い残していて、勝頼に対する信玄の遺言が勝頼の立場を微妙なものにして、逆に弱めていたと考えられます。何故ならこの当時の当主の力は絶対で、特に武田家は信玄という絶対的な当主の下で動いてきましたので、当主の権限が最強であったはずです。それが次期当主は孫で、それまでを繋ぎ役に徹しろと言われたら、周りも見方や態度などが変わってしまうはずです。そんな中での武田家最盛期を作り出したのですから、愚か者であったはずがないと考えられます。
話しがずれてしまいましたが、三方ヶ原の戦いで徳川家を完璧に倒した信玄はこの後、京を目指さずに信濃国駒場(長野県下伊那郡)で亡くなります。この時亡くならずにいたら「天下」を取れたのでしょうか。因みにこの当時の「天下」とは最近の研究においては、日本全国統一ではなく、畿内周辺5ヶ国を抑えることであったようです。日本統一という考え方は秀吉によって作られ、江戸時代に「天下」という言葉が日本列島全土を示すものになったようです。信玄が畿内周辺を抑えることが出来たのか、遺言にある「瀬田に御旗」を立てられたのか。そもそも京に御旗を立てるのではなく、その手前の瀬田で良いのかという方もいらっしゃるかと思いますが、この瀬田には唐橋があり、京に入る為にはここを必ず通らなければならないので、ここを抑えれば京を抑えられると考えられていたのでした。
実際問題として信玄が家康を倒した後、どのようなルートで京を目指し、信長とどこで戦かっただろうか、また倒せたのだろうか。この当時の信長は前年に比叡山焼き討ちを行っていますが、まだ浅井・朝倉は残っていたので、それらや一向宗と共同して足利義昭が画策した「信長包囲網」によって信長を倒せた可能性は高いはずです。しかし、反信長勢力が一致団結して戦えたのだろうか、という点が最大の焦点になります。ただ武田家には充分有能な家臣団が若手も含めて育っていましたので、各勢力との調整(取次)は行えたように思えます。室町幕府もその周辺の大名なども信長を倒すという目的は一致しているので、信玄は受け入れたと考えられますので、楽観的な考えですが上手くいったように思えます。
そもそも信玄に室町幕府に代わって将軍になりたいという意思は無かったように思います。これは他の大名にも言えることで、当時幕府に代わろうと考えたのが信長だけしかいなかった為です。現状を打破して自分が思い描く新しい世の中を想像する、作るといった観点までは行きついていなかったと思います。
信玄が生きていたとして、より完璧な状態で京を目指すならば、やはり弟である信繁が生きていた方がその完成度は増したと思います。この信繁という武将は信玄の陰に隠れてしまっていますが、その早すぎた死を敵であった謙信も惜しんでいますし、武田家臣団からも「推しみても尚惜しむべし」と評され、後年信玄と義信の対立も無かったと言われています。家老の山県昌景は「古典厩信繁、内藤昌豊こそは、毎事相整う真の副将なり」と評し、真田昌幸は後に生まれた次男に「信繁」と名付けています(真田幸村のことです)。
更に江戸時代の儒学者である室鳩巣は「天文、永禄の間に至って賢と称すべき人あり。甲州武田信玄公の弟、古典厩信繁公なり」と賞賛しています。つまり信繁が生きていたら、義信も生きていて、信玄後の武田家は安泰であったかもしれないのです。義信が生きていれば勝頼は諏訪家を継承し、武田家の親類衆として生きていくことになります。信玄の隣りに信繁が居たように、義信の隣には勝頼が居たはずでした。偉大な当主の隣にはナンバー2が必要なのでしょうね。それも血の繋がった弟なら猶更良かったはずです。秀吉にも秀長という弟が居ましたが、秀長が亡くなると一気に秀吉政権は瓦解へ向かっていったのは皆さんもご存じの通りです。実際に家臣と当主である信玄の緩衝材となっていた信繁が生きていた時期は武田家にとってあらゆることがうまく進んでいました。
結論からお伝えすると、信玄があと10年生きていたら、信長や秀吉、家康の天下は無かったか、現在私たちが知っているような形ではなかったように思えます。ただ信玄がどのような政治を行ったのか、室町幕府とどのように関わったかは分かりませんので、何とも言えません。さらにその他の戦国大名がどのように関わり、どのような行動を取ったかもあくまでも想像の世界になりますので、私なりの考えをお伝え出来きる機会があればお伝えしたいと思います。 信玄は謙信と5度も戦っていますが、その能力や人間性をお互いが充分理解し、助けあっていきたいと考えていたと思います。それは勝頼への遺言に現れています。生涯の好敵手は頼りになる同志なのかもしれません。信玄と謙信が馬を並べて、共に戦国最強と呼ばれた武田・上杉連合軍を指揮して、信長や秀吉などと戦う姿を想像すると私はワクワクしてしまいます。