皆さん、こんにちは。ロシアのウクライナ侵攻は政治・経済だけでなく、様々な事柄で世界に影響を及ぼし、評論家の中には「民主主義の危機」とまで言う方も現れています。当然のようにロシア国民には大規模な報道、言論統制が引かれて、ウクライナの実情やロシア軍の非情さについては全く知らされていません。逆に軍隊を賛美する報道が日々流されているようです。まさに太平洋戦争中の日本国民と同じように思えます。今回のウクライナ問題がどういった形で収まるのか、ロシアはどうなるのかはまだ分かりませんが、どんな形でもこれ以上の悲しみや憎悪などが生まれてほしくないと思いますね。

さて、今回は先月に引き続き、絶賛放映中の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」から主人公・北条義時(ほうじょうよしとき、以下「義時」)も含めた「北条氏」について述べていきたいと思います。皆さんは北条氏と聞いてどんな人物を思い出すのでしょうか。おそらく大概の人は歴史の時間で習った「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」を制定した北条泰時(ほうじょうやすとき、以下「泰時」)、元寇の時の執権・北条時宗(ほうじょうときむね、以下「時宗」)の2人位ではないでしょうか。ですから今回の大河ドラマで義時やその父、北条時政(ほうじょうときまさ、以下「時政」)を初めて知ったという方も多かったのではないでしょうか。義時以降の人物については後程少しお伝えしていきますが、先ずは北条氏そのものについてお伝えしていきたいと思います。

北条氏は伊豆国田方郡北条(静岡県伊豆の国市)を拠点とした在地豪族で、桓武平氏・平直方(たいらのなおかた)を始祖と自称しています。しかし現在伝わる北条氏系図において、時政以前の系図が不明瞭で、桓武平氏であったこと自体を疑う研究者もいるようです。実際北条氏の発展は時政の娘・政子(まさこ)が源頼朝の正室となってからであり、頼朝が平家打倒の挙兵をした際の北条氏が集めた兵は30~50人ほどで、石橋山の戦で敵であった伊東氏や大庭氏等がそれぞれ100~200人集められる力を持っていたことから考えても小さな勢力でありました。挙兵時は土肥氏や土屋氏の中村党、三浦氏や和田氏の三浦党、畠山氏や秩父氏の秩父党、上総氏や千葉氏、比企氏などの有力御家人の方が兵力や領土は勝っていました。そんな中で勢力を伸ばした一番の要因は頼朝の家族となり、強力な後ろ盾を得たこと。また他の坂東武者にはなかった「政治力」を時政や義時が持っていたことだと思います。ただ、最近の研究では北条氏が三嶋大社とも縁があり、本拠地が国府のあった三島や狩野川流域に近接して軍事・交通の要衝といえる位置にあることから、交易などに長けており所領は小さくても富強であったとする見解もあります。

前回もお伝えしましたが、坂東武士にとって自身の領地を守ることが重要で、それには「政治力」よりも「軍事力」が全てであったようなので、小豪族であった北条氏は近隣の豪族と上手くやっていくには自然と「政治力」が必要であり、身についていったのかも知れませんね。その政治力を駆使して時政、義時の時代は他の有力御家人を排除していきます。梶原氏、畠山氏、和田氏、比企氏などであり、最終的には義時の曾孫の5代執権・時頼の時代に三浦氏を排除し完成します。その一方で鎌倉殿の外戚としても地位も築いて、幕府内の影響力も強めていきました。

北条氏の中で皆さんが良くご存じなのは、やはり「元寇」の時の8代執権・時宗だと思います。この時宗は時頼の子で、代々執権職を輩出する嫡流得宗家に生まれ執権になるべく運命を背負っていました。時宗は元寇(1274年文永の役、1281年弘安の役)の3年後に34歳で亡くなってしまうのですが、元寇の為に生まれて日本を守り、亡くなってしまったようにも思えてしまいますね。ただ結果として、元寇という未曽有の事態に対して、日本が1つになって対応する指揮を取ったのが嫡流の執権であったのも良かったのかも知れませんね。やはり日本の方向性について責任が取れる人物はこの当時時宗しか居なかったかも知れません。得宗家以外の執権であったら、当時の幕府内で協議等を繰り返し、最終的には必ず得宗家にお伺いを立てて、決裁を取るようなことになっていたと思いますので、時宗が思案し決定するのが時間的にも早く、誰も反対をしなかったように思えますね。所謂独裁者という訳ではないけれど、責任が取れる家柄であったと思われますね。

またこの元寇の際に幕府は西日本警備の名の元、その支配権を拡大、強化していきました。これによって当然北条氏の力が一層西日本にも及んでいく結果となりました。

ここで元寇と言えば「神風」が吹いて日本は勝ったと記されている書物もあります。しかし、文永の役においては、予想以上に日本軍が強硬に反攻し、元軍が苦戦し撤退しただけであり、それを踏まえて13年後に2回目の弘安の役が起こりましたが、この弘安の役については、「神風」ではなく、たまたま台風が九州地方を襲い、混乱に陥ったモンゴル軍に日本軍が総攻撃をしかけ、成功したためだったと思います。

またこの当時の元は世祖と呼ばれたフビライの治世でしたが、版図拡大に注力していて、1276年に南宋を滅亡させ、ベトナムやビルマなど南方に進出し服属させ、朝鮮の高麗も属国化していて、ある意味で兵隊が外征疲れや油断もあったかと思います。

最後に北条氏とは直接的に関わりませんが、頼朝の死について、私なりの考えを述べて終わりたいと思います。

鎌倉幕府の公式文書「吾妻鏡(あづまかがみ)」には頼朝に死についての記述がない、1196年から1199年の記述が抜け落ちているのは有名な話しです。橋の落成式の帰りに落馬して、それが原因で亡くなったというものや、藤原定家「明月記」には「1月13日」に頼朝が亡くなった。おそらく急病だろう」と。さらに当時の関白の日記「猪熊関白記」には「頼朝は重い飲水の病となり、その後亡くなったという噂を聞いた」と記されています。

つまり頼朝の死は触れてはいけないタブーであったのかも知れません。今回の大河ドラマでも視聴者を驚かせるようなことになっているかも知れないですね。私はドラマの中でも幾つか伏線があったように思えます。富士川の戦いで平家軍を破った源氏軍の主力である上総介広常を筆頭に坂東武士たちは先ずは坂東を固める為に平家方についた者を制圧していくこととしていました。一方で頼朝は逃げる平家を追って、そのまま京を制圧し後白河法皇を助け出そうと考えていました。平家討伐の為、西国へ向かうことについても坂東に坂東武士の独立した勢力を作ろうと考えている急先鋒であった上総介広常を粛正しなければならなかったのは、粛正することで頼朝の権威を確固たるものにし、絶対権力者とする意図もあったはずです。そんな頼朝は基本的に京の朝廷と二人三脚で日本を治めていきたい、朝廷から日本全国の統治を認めて貰った政権を作りたいと思考していたはずです。この思考は坂東武士とは真逆の思考でありました。これらのことから類推すると【頼朝は御家人たちの考えによって暗殺された】のではないかと思うのです。表立って叛旗を示すと猜疑心の塊のような頼朝が上総介広常のように粛正や暗殺などの手段を使う可能性あるので、御家人たちは従っていたはずです。それは頼朝死後の幕府の体制が物語っています。

大河ドラマでも義時の兄・宗時が亡くなり前に「坂東武士の世を作る為に源氏でも平家でも頼朝でも担ぐのは誰でも良かった。坂東の頂点には北条が立つ」といった趣旨のようなことを義時に言っていたのが、今回の大河ドラマのテーマではないかと思います。ドラマを見ていて皆さんの頼朝像、義経像、義仲像が覆されているのではないかと思いますが、私自身としては頼朝はあのような感じであったと思います。しかし義経の描かれ方が極端である一方、義仲については凄く出来た人物で、「義」に熱い、真っすぐな武士として描かれていた好感が持てる感じになっていました。もしかすると脚本家・三谷幸喜氏は松尾芭蕉と同様に義仲を凄く評価していたのかも知れませんね。