皆さん、こんにちは。梅雨入りしてジメジメした毎日が続いていますが、体調などは崩していないでしょうか。まだまだ新型コロナウィルスが沖縄で感染者数が多くなっているとのニュースを先日観ましたし、インフルエンザ感染者も多くなっていて、更にこの時期は食中毒にも注意しなければならない、という状況です。やはり自身の体調管理という基本的な部分を徹底することで家族や同僚、仲間を守っているんだという意識が改めて必要だなと感じました。最近電車内でマスクしない人が多くなってきたのは凄く気になる自分が居ます。

さて、今回も前回に引き続き、現在放送中の大河ドラマ「どうする家康」から徳川家康が関わってきた人物や事件について皆さんに豆知識的なことからマニアックな内容をお伝えしていきたいと考えています。今回は最近研究が進んでいる「長篠(設楽原・したらがはら)の戦い」について述べていきたいと考えています。この戦いは皆さんもご存じの通り、織田・徳川連合軍対武田軍との戦いであり、新戦法(鉄砲)対旧戦法(騎馬)の戦いとして新しい戦いの象徴のように見られています。今まで考えられてきた戦いが実はもっと様々な意味をもっていたというのを今回はお伝えしたいと考えています。

まず初めに皆さんもご存じのようにテレビや映画などでの戦闘シーンで見る馬について、時代劇の撮影で使われている馬はサラブレットですが、戦国時代当時には存在しません。サラブレットは明治になって日本に入ってきたものです。当時は農耕にも使われていた日本古来からの在来馬(ポニーみたいな馬)が戦いでも使われていました。ただ、武田家にはその領内に古代から良馬の生産が盛んであったと言われていますので、他家の馬よりは良い馬に乗っていたのではないかと思われます。因みにサラブレットが体の高さ160~170cmで、ポニーは120~130cmと小さく、大柄な武将が乗ったら重くて速度がでなかったりということがあったようです。しかし遅いと言っても速度としてはおよそ50メートルを5~6秒で走ったと言われています。人間が50メートルを走ってくるのと馬が走ってくるのではやはり迫力や威圧感が全く違いますよね。迎え撃つ側としての恐怖心は半端なかったと思います。

次にこの点はかなり有名で皆さんも良くご存じの点かと思いますが、戦場である長篠(設楽原)に織田・徳川連合軍は全長2キロにも及び三段の馬防柵を作り、総数3000挺と呼ばれた鉄砲を1000人ずつ3列に分け、三段撃ちを行ったと言われています。最近の研究で3000挺ではなく、多くても1000挺と言われていますし、三段撃ちについても否定的な意見が多く出ています。その理由は後程お伝えします。馬防柵の材料である丸太を連合軍は兵士一人一人が岐阜や岡崎、浜松から運んできたと言われています。そうすると信長は以前からこの戦いの方法や場所をかなり前から考えていたということになります。またそれまでの信長の主要な戦い方、戦術が敵国(敵軍)へ攻め込むというのが多かった(桶狭間の戦い、稲葉山城攻め、姉川の戦いなど)のですが、同盟国である徳川家の領地ということで受け身的な戦い、防御戦というのは初めてであったのではないでしょうか。この場合は武田軍が攻め込んでこなければ、この馬防柵は何の意味もありません。その点はやはり長けていた信長や家康で、徳川家家臣・酒井忠次に武田軍の背後である鳶が巣山(とびがすやま)砦を奇襲させ、武田軍が設楽原で出てくるように仕向けていました。

また、この戦場となった設楽原一帯は湿地帯で戦いのときはちょうど雨季、馬防柵が築かれた2キロには3つの街道(路)、湿地帯の後方に馬防柵があり、馬で通行できる路は3本の街道のみという状況、更に3000挺もの鉄砲。迎え撃つ連合軍としては、武田騎馬隊が向かってくる3つの地点に砲撃を集中すれば良いという状況でした。この当時の火縄銃の命中精度としては、およそ50メートル先が限界と言った感じであったらしく、向かってくる速度や地点が分かっていた為、一点集中、直前まで引き付けて攻撃することはなかったようです。

しかし、連合軍の予想を超える武田軍の猛攻に馬防柵は一部(二段目まで)破られています。そこに辿り着くまでに武田軍は多大な犠牲を払っています。武田二十四将として有名な山県昌景、馬場信春、土屋昌次、内藤昌秀など信玄以来の重臣を失いました。実は三段撃ち、更に砲撃を集中する場所などが分かっている状況で突破された原因が三段撃ちにあったと最新の研究では考えられています。現在の火縄銃撃ちを行っている方の発射後に次の玉ごめまでの時間を測ったところ、30~40秒は最低かかる実験結果が出たのですが、50メートル先の騎馬武者を射撃してから列の全員の準備が整わなければ射撃は出来ない三段撃ちにとって、その間に騎馬武者は続々波状攻撃で向かってきますし、最悪なことに戦いの時期は雨季で多湿、玉薬(火薬・弾薬)にとって湿気は一番の大敵、全てが上手くは進まなかったはずです。ここに武田軍の付け入る隙がありました。その為、三段撃ちではなく、最近では玉ごめ準備が出来た者から列に入り射撃していく自由連射で行われていたのではないかと考えられています。その方が間断なく向かってくる武田騎馬隊に対応出来ますし、鉄砲隊各自のペースで進められ慌てたり、焦ったりすることなく射撃ができていたと思います。

そもそも新戦法対旧戦法、鉄砲対騎馬の戦いの象徴のように思われていますが、武田軍も連合軍ほどではありませんが、1000挺ほどの鉄砲を保有していたと言われていました。実はこの戦いの前哨戦として長篠城の攻防戦があります。つまり武田軍は連戦であったこと、そこで鉄砲を使用していた状況の後に設楽原で連合軍と戦いました。何が言いたいかといいますと、玉薬(火薬・弾薬)の数が連合軍ほどなかった、火縄銃の性能も連合軍側は最新式のものを装備していたと考えられます。信玄の頃から鉄砲の威力や戦いでの有効性は充分に理解し、多くの鉄砲を手に入れるようにしていましたが、しかし甲斐国は山国(内陸国)、有名な「敵に塩を送る」ということわざは上杉謙信が敵であった信玄の苦境(武田家はそれまで同盟国である今川家と北条家から塩を購入していたが、信玄が今川を攻めた為に「塩留め」をされた)を察して塩を送り助けたことでも分かるように武田家には交易を行う港が無かった。一方織田家は当時日本最大の交易都市である堺を抑え、自国の尾張国でも以前から海上交易が盛んであった為、経済ひいては貨幣の重要性を理解していました。鉄砲そのものの数だけでなく、玉薬の数でも圧倒的に連合軍が優位に立っていたということから、この戦いが示したのは新戦法だけでなく、戦いには経済力、資金力、情報力が重要な意味を持つようになったということも示していたと思います。

この戦いで武田家は多くの重臣を失うといった敗戦により大打撃を受けますが、まだ滅亡したわけではなく、武田家滅亡はこの7年後になります。勝頼は新たな家中の体制を作り、盛り返していきます。以前にもお伝えしましたが勝頼は決して凡将、愚将ではなく、優秀な武将であり、当主であったと思われます。ただ先代信玄が余りにも優秀すぎたから、家を滅ぼしたといった比較されがちな為、後世の評価は最悪なものになっています。しかし私はそうは感じていませんし、最近の研究ではその評価は上がっています。現代の人が習ってきた歴史は「勝者」の歴史であって、「敗者」のことは語られてきていませんので、その点を知ることで新たな歴史の一面を知ることが私は凄く面白いと思っています。