さて、今回も現在絶賛放送中の大河ドラマ「どうする家康」から、放送の中ではこれから数多く出てくるかも知れないですが、最後まで武田家に忠誠を誓い、武田家滅亡から全く描けれなかった穴山梅雪(あなやまばいせつ)以外の武田遺臣のうち、後の江戸幕府において4代家綱時代から8代吉宗時代まで幕政を司る名老中を輩出し、大復活を遂げた土屋家についてお伝えしたいと思います。今回も歴史好きな方でないと知らない、分からないといったかなりマニアックな話しになりますが、お付き合いください。
土屋家はその歴史は非常に古く、昨年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも実はその祖先が出ていました。皆さん覚えていますか。鎌倉殿・頼朝が平家に対して挙兵し、最初の戦いである石橋山の戦いにおいて頼朝と共に戦った、土屋三郎宗遠(つちやさぶろうむねとお)その人です。宗遠は中村党と呼ばれた桓武平氏の一族で、同族には後の毛利三兄弟の小早川家がありました。中村党で有名な鎌倉武士は土肥実平(どいさねひら)ですが、宗遠はこの実平の弟にあたります。頼朝が石橋山の戦いで敗れ、安房国(千葉県)へ逃れた際の「七騎落ち」の一人とされています。
ここで少し脱線してしまいますが、皆さんは東海道というと現在の日本橋から京都の三条大橋までの街道を指すと考えているかと思います。近代以降にとってはこれが正解なのですが、実はもっと昔から律令制度の時代に整備された旧東海道がありました。その旧東海道は京都から出発して相模国(神奈川県)においては箱根、小田原、国府津、大磯、藤沢、鎌倉を通って、三浦半島へ向かい、横須賀市の走水から浦賀水道(東京湾)、房総半島に繋がっていました。頼朝は真鶴から浦賀水道を渡り、そこから下総国、上総国と周り、武蔵国を経て鎌倉に入ったと言われています。このことを地図を見ながら追ってみると旧東海道、現在の国道16号線と似ているなと思ってしまって、頼朝が国道16号を進軍していたと思うと何か面白いなって感じてしまいました。
土屋家は鎌倉幕府成立後は幾つかの国の地頭職に任官し、その地域に勢力を伸張していましたが、室町時代の初めの「上杉禅秀の乱」に加担し、相模国の本領を奪われ、他国に逃れました。その後、甲斐国守護・武田信昌の娘を娶り、武田家の家臣となります。この時、土屋家には武田家の血が入ったことになり、武田家一族になりました。その後、武田家を離れてしまいます。これは信玄が父である信虎を追放した際に、当時の土屋家当主・土屋昌遠が付き従っていったためです。
この土屋家はその後、徳川家に仕え旗本として続いていきます。
江戸時代に大復活を遂げる土屋家はもう一つの土屋家でした。こちらの土屋家の方が実は有名で武田家にあって武田二十四将にも数えられた土屋昌続(つちやまさつぐ)がその象徴とされています。この昌続は実は鎌倉時代から続く土屋家の出身ではありません。金丸筑前守虎義(かねまるちくぜんのかみとらよし)の次男として生まれています。父である虎義は板垣信方(いたがきのぶかた)と並び武田信玄の傅役であったと言われています。金丸氏は武田家一門で、武田信重の子である光重を祖としています。昌続は幼少の頃より信玄に眼をかけられ、真田信繁(幸村)の父、昌幸などと「奥近習六人衆」の一人として信玄の側近くに仕えていました。六人衆の中でも昌続は特別で、格別の寵愛を信玄から受けていたと言われています。昌続の初陣は第四次川中島の戦いで、真田昌幸とともに戦場に立っています。
昌続は22歳で侍大将となり、この時武田家の名門である土屋家の名跡を継ぎ、土屋昌続と名乗るようになりました。実はこの当時22歳での侍大将への抜擢は異例中の異例でありました。実際に他の侍大将である馬場信春(ばばのぶはる)51歳、山県昌景(やまがたまさかげ)41歳、内藤昌秀(ないとうまさひで)41歳で、昌続以外の奥近習六人衆はこの時足軽大将でしかなかったのでした。信玄の側近・奉行衆として様々な大名への取次役としても活躍し、信玄の薫陶を受け次世代の武田家の中心人物へと成長していきました。
しかし、信玄が西上作戦の途中、信濃国駒場で亡くなると、殉死しようとしましたが、高坂弾正昌信(こうさかだんじょうまさのぶ)に説得され、思いとどまったと言われています。信玄の遺骨は昌続が甲府に持ち帰り、自分の屋敷の庭先に埋葬しました。現在その地が甲府での信玄の墓所となっています。3年後にその遺骸を掘り起こして、信玄の菩提寺・恵林寺に正式な墓を移しました。
1575年の長篠(設楽原)の戦いでは、山県、馬場、内藤らとともに撤退を進言したが、武田勝頼は決戦を行うことを決定しました。真田信綱、昌幸らと右翼を担当し、三重の馬房柵の二重までは突破したが、一斉射撃を受け戦死しました。享年31歳でした。昌続の首は従者の温井左近が持ち帰り、信州まで逃げようとしたが逃げきれず、首を埋めて自らも切腹して殉死したと言われています。現在も愛知県新城市に従士・温井左近昌国の墓があります。昌続には子が無かったので、弟の惣藏昌恒(そうぞうまさつな)が土屋の名跡を継ぎました。
跡を継いだ惣藏昌恒はこの時には、実は別系統の土屋家を継いでいました。今川家との戦いにおいて初陣を果たし、後に武田家の海賊衆となる岡部貞綱(おかべさだつな)の家臣を討ち取っています。その後、貞綱が武田家に降った際に昌恒を養子にしたいと懇願し、迎えられています。また武田家に降った際に貞綱は土屋姓を与えられ、土屋豊前守貞綱と名乗っています。つまり兄の名跡を継ぐ前から土屋昌恒でありましたが、昌恒は侍大将家と海賊衆家の両土屋家の名跡を継いだのでした。しかし昌恒で有名なのはやはり「片手千人斬り」です。1582年の織田・徳川連合軍の甲州征伐によって武田家は重臣や一族が続々と裏切っていった中、最後まで勝頼に従い、忠義を全うしたのが、昌恒でした。小山田昌茂を頼って郡内地域(山梨県都留郡一帯)に向かった勝頼一行が昌茂の離反を知り、最終的に天目山(てんもくざん・山梨県甲州市)に向かいます。この時、勝頼に従っていた家臣は数十人となっていました。この天目山で自害を覚悟した勝頼に自害するまでの時間を稼ぐために織田勢相手に奮戦したのが、昌恒です。その際狭い崖道で織田勢を迎え撃つため、片手で藤蔓を掴んで崖下へ転落しないようにし、片手で戦い続けたことから、後に「片手千人斬り」と異名をとったのでした。昌恒のために日川に突き落とされた千人もの兵が流した血は、川の水を赤く染めて、それは3日間色を失わなかったと言われていて、人々は後にこの川を「三日血川」と呼ぶようになり、後世まで片手千人斬りの伝説を語り伝えました。
昌恒が天目山で主君・勝頼に殉じた時に嫡男である後の土屋忠直(つちやただなお)は母に連れられて駿河国清見寺に落ち延びます。やがて徳川家康の召し出しを受けて家臣となり、徳川秀忠の小姓として仕えるようになります。後に秀忠の「忠」の偏諱を与えられて、忠直と名乗ります。忠直が幼少であったため、配下の郎党は井伊直政の配下に組み込まれました。「井伊の赤備え」になります。忠直は順調に加増を受けて、1602年には上総国久留里藩主となり、最後まで武田家に従った家臣では稀有な大名家となりました。しかし昌恒の土屋家はこれだけでは終わりません。久留里藩は嫡男の利直(としなお)が継ぎますが、次男の数直(かずなお)が更なる土屋家の繁栄をもたらします。後の3代将軍・家光の近習になり、様々な役職を経て、1665年に幕政を担う「老中」となります。この頃は既に4代将軍・家綱の治世になっていて、文治政治に取り組んでいきました。本家とは別に常陸国土浦4万5000石の大名となっています。この数直の嫡男である政直(まさなお)も父・数直に劣らずの人物で、1698年老中首座となり、4人の将軍に仕えています。この政直の時に漸次加増を受けて、最終的に土浦藩9万5000石となっています。
宗家が忠直-利直-直樹(なおき)と続いていましたが、直樹の時に狂気の振る舞いがあって改易なりましたが、ここで「片手千人斬り」の家、分家が老中家ということで、旗本として続いています。その直樹の子・逹直(みちなお・通称:主税)の時に赤穂浪士に討ち入りされる吉良上野介義央と屋敷が隣同士となり、討ち入りの際には老中・政直に通報していました。 最後に、武田家の滅亡の際にも最後まで忠義を全うし、華々しく散った武将は後の世、特に江戸時代は様々な形でその子孫たちに影響を与えています。土屋家も「片手千人斬り」である昌恒がそうであったように、更に放送中の「どうする家康」にも主要な家臣として出てきている、鳥居元忠(とりいもとただ)の鳥居家も2度の改易を元忠の二条城での討死が幕府、家康にとって重要な事柄であったために、そのたびに復活し、少しずつ加増されながらも大名家として続いていきました。死してなおその偉業を子孫に繋いでいくことに私は凄く感動し、それを忘れないことの大切さを感じます。当人はそんなこと全く考えていないと思いますが、潔さや主君への忠誠、後の武士道と呼ばれるものを戦国時代には武士個々が持っていたのでしょうね。