皆さん、こんにちは。4月に入り、入学式や入社式が各地で行われ、桜も満開を迎え、桜吹雪が舞っている地域もあるかと思いますが、私はこの時期が一年の中で一番華やかで明るいと毎年感じています。 日本人にとって「桜」は綺麗、美しい、儚い、可憐といったイメージがあるのでないでしょうか。「桜」は万葉集の時代から日本人にとって身近な生活の一部であったかと思います。 皆さんにもとっておきの「桜」があるでしょう。その「桜」を愛でながら季節を楽しんでください。私の好きな和歌を二首伝えておきます。 『久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ』(紀友則) 『願わくば 花の下にて 春死なむ その如月の 望月の頃』(西行法師)

さて、今回は前回に続いて、現在放送中の大河ドラマ「西郷どん」からある人物をピックアップしたいと考えています。その人物とは「天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)」 以下『篤姫』」になります。

薩摩藩主・島津斉彬の養女として徳川幕府第13代将軍・家定(いえさだ)の御台所(みだいどころ)になった女性です。家定という人物については、その当時の書物によると病弱で一説には脳性麻痺であった為、知能が遅れていた、愚鈍、凡庸といった評価になっています。

私自身はそういった評価を余り信用していません。その当時の世情(ペリー来航など)や幕閣の要人(阿部正弘、井伊直弼)によって作り上げられてしまったかも知れない。

幕閣の要人にとって250年間続いた鎖国政策が180度転換するかもしれない状況において、愚鈍、凡庸な将軍の方が扱い易かったということもあるのではないかと。一方でお菓子作り(カステラや饅頭など)が得意だったとも言われています。

そんな家定の御台所になった篤姫の夫婦生活は1年9か月で終わってしまいます。篤姫の養父・島津斉彬は生前に一橋慶喜と次期将軍に推す「一橋派」として活動をしていた人でしたが、家定の後の14代将軍は「南紀派」大老・井伊直弼が推す紀州藩主・慶福(徳川家茂(いえもち))が将軍に就きます。

家茂の御台所が有名な皇女和宮(静寛院宮(せいかんいんのみや))になります。篤姫は家茂や和宮との仲は良く(当初は篤姫と和宮は武家と公家の生活習慣の違いから不仲であったが、家茂が中に入り和解していったと言われています)、幕府が滅んだ後も和宮とは度々会っていたという記録も残っています。

皮肉と言いますか、次期将軍へ擁立を考えていた15代将軍となった一橋慶喜とは仲が悪かったと幕臣・勝海舟(かつかいしゅう)が後年話しています。

慶喜の大奥改革が原因と言われていますが、私は違った理由を想像しています。それは慶喜が大政奉還を行ったことで、徳川将軍家が存亡の危機に立たされたことが原因ではないかと思っています。

篤姫にとって徳川将軍家は生まれ育った薩摩藩よりも大事な家であり、夫であった家定の思いを継承すべき家であったと思います。

その証拠に家定の死後と幕府が滅亡した後の2回薩摩藩・鹿児島へ帰るチャンスがあったにも関わらず江戸城や東京に留まっていますし、幕府滅亡後の徳川宗家の跡取りとなった徳川家達(いえたつ)の育成に力を注いでいます。

明治維新後もほとんど東京を離れることがなく、生涯唯一の旅行がかつて和宮が病気療養(老舗旅館・環翠桜にて)をしていた箱根の塔ノ沢を訪ねたものでした。

篤姫自身は明治政府や薩摩藩、薩摩出身の明治政府の要人から生活の援助を受けずに徳川宗家とともに生活をし、徳川の人として亡くなっています。徳川将軍家の菩提寺である上野・寛永寺境内に家定の墓の隣に埋葬され、今も夫婦寄り添っています。

篤姫が和宮を弔い送った下記の和歌があります。この和歌は早世した和宮を偲び、惜しむ思いがつまっていて私は悲しくなります。この歌から、どれほど篤姫にとって和宮が新しい時代を共に歩いていける心を許せる友、同志だったということが浮かんできます。

『君が齢(よわい)とどめかねたる 早川の水の流れも うらめしきかな』