皆さん、こんにちは。6月に入り徐々に湿気と暑さが増してきています。しかしこの季節も日本にとって農作物などには大事な時期であります。桜や紅葉同様に時には雨を愛でるのも一興かと思います。 因みに織田信長が世に名を知らしめた『桶狭間の戦い』はこの時期(1560年5月19日<旧暦>、6月12日<新暦>)であり、信長自身は【梅雨将軍】と呼ばれていました。

さて今回は、とても気の早い話で申し訳ないのですが、先日再来年(2020年)の「大河ドラマ」の題材が『麒麟がくる』と発表されました。主人公は【明智光秀(以下「光秀」)】になります。

この光秀という人物の皆さんのイメージは「裏切り者」「反逆者・謀反人」というものではないでしょうか。光秀がそういったイメージになってしまったのは【本能寺の変】を首謀したからかと思います。

この【本能寺の変】の解釈については様々な通説が現在も議論されていまして、真実は「闇」の中です。

【本能寺の変(1582年6月2日<旧暦>、6月21日<新暦>)】の概略や通説については皆さんも良くご存じかと思いますので、省略させて頂きますが、代表的な通説は【黒幕説】と【怨恨説】が挙げられます。

【黒幕説】にも幾つか通説があるのですが、代表的なものは「朝廷関与説」「足利義昭関与説」とあります。

この2つの通説の根本にあるのは、光秀自身が美濃源氏(土岐氏)一族の出身であり、有職故実(古来の先例等)に重きをおき、朝廷や幕府を中心とした日本の安定(平和)を前提として、信長による新たな秩序構築を目指していたからかもしれません。

その為、「比叡山延暦寺の焼き討ち」を信長は行っていますが、光秀は乱れに乱れた比叡山を立て直すために焼き討ちが必要と考え、比叡山討伐の一隊を率いて焼き討ちを行っています。

私は光秀が当時の信長家臣団の中で文化教養に長けていて、ある意味で軍事(武力)のみの家臣とは異なり、信長だけでなく朝廷などからも頼りにされて、物事の善悪について自分自身を納得させることに苦慮していたのではないかと推察しています。

次に【怨恨説】ですが、これも幾つかの通説があります。「旧領の召上説」「母親の磔説」「虐待説」などが挙げられますが、これ以外にも様々な【怨恨説】があります。

実はこちらの方が現実的なのではないかと私は考えています。光秀は本能寺の変の時は67歳であったと言われています。

当時でもかなりの高齢であり、後継ぎの光慶は若年のためこの時光秀が行っている役目を行うには無理があったことや家臣団の生活を守っていかなければならないこと、更に信長家臣団の中では秀吉と並び出世頭として自他ともに認めるほど活躍していたにも関わらず、多くの家臣の前で罵倒や殴打をされていたことが光秀のプライドを傷つけられ、幾つもの要因が積み重なったのではないかと思います。

家臣や家族思いの光秀にとって、生活の基盤である領地や家族ともいえる家臣は何にも換えがたい大切なものであったと思います。

ここまで挙げてきた通説について、私は余り信じていないし正直信じられないという考えも持っています。

何故なら現在私たちが接している歴史は勝者によって勝者の良いように改ざんされ、敗者の主張や考えは一切抹消されてしまっているからです。

その為、言うなれば今伝わっている光秀だけでなく、信長も秀吉によって改ざんされているはずです。敗者の歴史の方が何となく真実をとらえているのではないかと考えています。

前回、田沼意次について述べましたが、信長も既成の秩序や制度の枠におさまらない、この当時は「変質者」「奇人」に見えていたかと思います。

信長による新しい世の中(秩序)を想像し、その構築の為に自分の生涯をかけて生きていった光秀にとって、身近な者たちが不幸になることは許せなかったことだったのかも知れないですね。

因みに光秀が生きた時代から約300年後に光秀の子孫と称する人物が既成の体制(江戸幕府)を倒すキーパーソンになっています。

その人物とは土佐藩浪士「坂本龍馬」であることをご存じの方はかなりの歴史通と私は思いますね。