皆さん、こんにちは。10月は「神無月(かんなづき)」と呼ばれているのは皆さんもご存じかと思います。 良く耳にする「神が居ない月」というのではなく、「無・な」は「の」の意味で「神の月」の意味とも言われています。 これは6月が「水無月(みなづき)」と呼ばれるのと同意で「水の無い月」ではなく「水の月」ということらしいです。 古い言葉の語源には時代を経るにつれて様々な謂れや風習が加味されていくので、何が正しいのかは分からないものが多くなってしまいますね。

主人公は越後国長岡藩の河井継之助

さて、以前は映画「関ヶ原」に関連する人物についてお伝えしましたが、今回は2020年公開予定の司馬遼太郎氏原作「峠」(映画名『峠 最後のサムライ』)に関連する人物について述べていきたいと思います。

この小説は幕末に「越後長岡の風雲児」と呼ばれた越後国長岡藩(新潟県長岡市)家老・「河井継之助(かわいつぎのすけ)」について書かれたものです。

この人物についてご存じの方はかなり幕末史に詳しい方かと思います。江戸時代の大名家には代々の家柄によって役職がほぼ決まっていました。

しかし、この継之助は代々の家老家の出身ではなく、自己の才覚によって最終的に藩政を主導する「家老」にまで出世しました。

身分制の厳しい中での家老職就任ですから藩主や同僚からの信頼は絶大であったと思います。

実はこの長岡藩には次席家老家として「山本家」という家があり、長岡市が誇るもう一人の人物がこの「山本家」から輩出していますが、その話は後程お伝えしたいと思います。

激動の幕末を生きた男

継之助が藩政に関わるようになったのは慶応元(1865)年で日本全国が「尊王攘夷」の旗印に激しく揺れ動いていた激動の時代でした。

そんな中で長岡藩(牧野家)は譜代大名家として基本的には幕府側に立っていました。その為、慶応3(1867)年に第15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行うと、公武周旋の立場をとり徳川家擁護の建白書を新政府に提出しています。

戊辰戦争が始まると若い頃に長崎などで遊学(留学)をしていたので、最新の西洋の文化や技術についても見識があったので、その当時の最新兵器を購入し戦争に備えていました。

当時の日本にはガトリング砲が3門しかなかったのですが、その内2門を長岡藩が装備していました。

新政府軍が会津藩征討の為に越後国小千谷(新潟県小千谷市)に迫った際にも中立の立場で新政府軍との談判へ臨み、旧幕府軍(会津藩や庄内藩などの奥羽列藩同盟)と新政府軍の調停を行うことを申し出て、新政府軍監・土佐藩の岩村精一郎と会談しました。

しかし、継之助が「あなた方が真の官軍ならば恭順しても良いが、討幕と会津討伐の正当な理由は何か、旧幕府や会津を討伐すると言いながら本当は私的な制裁や権力奪取が目的なんだろう、長岡領内への侵入と戦闘は断る」と伝えます。

この継之助の問い掛けと正論に岩村精一郎が反論できずに小千谷会談(談判)は決裂しました。

現在放送中の「西郷どん」を見ていても薩長(特に西郷と大久保)がかなり強引に旧幕府を挑発し、武力による幕府制圧を行うように画策しているのが見ていて分かるかと思いますが、新政府軍には幕府や会津藩を制圧する大義名分が無かったように思えますね。

熾烈を極めた北越戦争

会談(談判)が決裂した継之助の長岡藩は新政府軍と戦うことになります。「北越戦争」と呼ばれるものです。

当初長岡藩は近代的な軍事訓練と最新兵器で武装され、継之助の巧みな用兵により互角に戦いますが、絶対的な兵力差と物量より徐々に押され、長岡城が奪われてしまいます(1868年5月)。

その後長岡城を奪還しますが、再び陥落(1868年7月)してしまい継之助は会津へ落ち延びます。

戊辰戦争を通じて最も熾烈を極めたとされる北越戦争は新政府軍の勝利に終わり、以後、戦局は会津へと移っていきます。

この会津へ向かう途中、継之助が生涯最後に越えた峠である八十里峠(福島県南会津郡只見町)で自嘲の句を詠んでいます。

「八十里 腰抜け武士の 越す峠」この句は、「腰抜け」と「越後を脱け出る」とを重ねたものになっています。

この峠を越える際の継之助は左膝を流れ弾で重症を負っていたので、只見町が終焉の地となっています。

薩長中心の新政府軍の横暴を見かね、やむなく開戦となっているのは明白で、北越戦争も長岡藩としての自立や明らかに大義が新政府軍にはない中での自衛的な戦いであった意味合いが強い印象を私は感じています。会津藩も同様だと思います。

河井継之助の精神を受け継いだ人物とは・・・

この精神を後の人物が継承しています。その人物とは連合艦隊総司令官・山本五十六元帥です。

山本家は継之助の河井家同様、家名断絶という処分を戊辰戦争後に受けていますが、その後再興を許されています。その山本家に養子として入ったのが、当時海軍少佐であった高野五十六です。

「やってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ」

は山本の格言として有名でありますがこれは上杉鷹山の「してみせて 言って聞かせて させてみる」から影響を受けているとされています。

五十六も太平洋戦争開戦の際は、継之助と同じように戦地拡大を主張しアメリカとの戦いを楽観的に考えていた陸軍参報本部に押し切られ、仕方なくといった形であったのは皆さんもご存じかと思います。

大量生産が可能なアメリカには勝てないことは海軍の中では常識であり、日米開戦について「それは是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。

しかしながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様極極力御努力願ひたい 」と発言していました。

活躍した時代は違えど、長岡が生んだ人物が同じ精神を貫いていることが素晴らしく、雪深い長岡という地域がこの精神を育んでいると考えるとこの二人の人物を長岡の方は誇りとして貰いたいと思いますね。

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八幡太郎 (歴史ライター)

歴史が大好きで話し始めたら止まりません。 ここでは日本史ネタを気ままに綴っていきます。