皆さん、こんにちは。4月になりまして、「平成」もあと1か月となりました。新しい時代はもうすぐそこまで来ています。年明けの1月に様々な意味で新たな気持ちになりましたが、元号が新しくなるのは年が明けるのとは違い、日本全体が新元号「令和」への期待で溢れていますので、それに乗り遅れないようにと内心思っています。

今回は、趣向を変えまして、昨年の5月にお伝えしました、今までの評価が変化している(変化すべき)、改めて見直されている(見直されるべき)人物の第2弾を私感を含めて述べていきたいと思います。お付き合いのほど、宜しくお願いします。この人物は歴史の教科書に一瞬だけ登場し消えていきます。その為、この人物のことを知っている人はかなりの歴史通であると思います。

その人物とは「朝日(あさひ)将軍」と呼ばれた【源義仲<みなもとのよしなか>】です。あまりピンとこないですかね。歴史が嫌いになる方の原因が同じ苗字の人物が多数いて、覚えづらいことが影響していると思います。「源(みなもと)」「平(たいら)」「藤原」「北条」「足利」「徳川」がその典型ではないでしょうか。今回取り上げる人物もその一例であり、さらに一瞬しか登場しないので、知名度は同じ「源頼朝」や「源義経」といった人物から見ると低いものだと思います。しかし、義仲が歴史上で果たした役割は実はその後の日本史にとって重要なものであったと私は考えています。

義仲が歴史上に登場するのは、寿永2年(1183年)5月に越中国(現在の富山県)砺波山(となみやま)の倶梨伽羅峠(くりからとうげ)で10万人とも言われる平維盛(たいらのこれもり)率いる平氏の北陸追討軍を破り、その後幾つかの小さな戦いに勝利して、京都に入京しました。この入京が単に平氏を京都から追い出して源氏が京都を制圧して、平氏に代わる新しい政治の幕開けではなく、更なる政治的混乱の幕開けだったのでした。この混乱の根源は「1156年・保元(ほうげん)の乱」と「1159年・平治(へいじ)の乱」にあると思います。二つの争乱は天皇家、摂関家、源氏、平氏が複雑に絡み合っていました。その争乱に一応の決着をつけたのが後白河法皇であり、平清盛でした。二人の仲が良い時は政治も安定しますが、一旦仲が悪くなると両陣営(天皇・院政派と武家派)トップ同士ですから、簡単には収まりません。幾つかの事件も起こっていました。その混乱を収めることを期待されて義仲は京都へ入京していますから、京の人々や公家、後白河法皇の期待値はものすごく高いものでした。

義仲の生い立ちは義経と同様に生まれてすぐに父親(源義賢<みなもとのよしかた>)を亡くします。それも義仲自身の従兄弟(頼朝の兄、源義平<みなもとのよしひら>)に殺されています。義平は悪源太(あくげんた)と呼ばれていまして、この当時の「悪」は善悪ではなく、「強い、猛々しい」という意味で、剛勇な源氏の長男(太郎)という意味になります。八幡太郎義家以降の源氏一族は一族内での争い(兄弟、親子などで)が頻繁に起こっていまして、自分で自分の首を絞め、勢力を弱めている一族なんです。

義賢が殺された当時2歳の駒王丸(後の義仲)は「中原兼遠(なかはらかねとう)」や「齋藤実盛(さいとうさねもり)」といった何人かの家来によって匿われ、信濃国(現在の長野県)の木曾谷に逃れ兼遠の庇護の下で成長します。

義仲は平氏を追討し最初に京都に入京しましたが、当時の京都は飢饉続きで食糧事情が極端に悪化していて、そこに遠征してきた義仲が率いる大軍が入京したので、食糧事情は更に悪化しました。その為、遠征軍が都や周辺で略奪行為を行ってしまい、治安は悪化の一途を辿っていきました。義仲が率いた軍勢は混成軍であった為、統制が出来る状態ではなかったのが実情でした。その為、後白河法皇は源氏一族内で争わせ、その勢力を弱めること考え、頼朝に義仲追討を依頼し、頼朝の代行者として義経と戦います。「宇治川の戦い」と呼ばれるものですが、ここで惨敗します。数名の家臣と落ち延びますが、近江国粟津(滋賀県大津市)で討ち死にしました。享年31歳でした。実は義経も同じ後白河法皇の策略により頼朝と争うことになり、最後は頼朝に討たれた訳ではありませんが、陸奥国(岩手県)衣川で討ち死にしました。同じく享年31歳でした。

因みに「義仲四天王」と呼ばれる4人の武将がいますが、兼遠の子供の「樋口兼光(ひぐちかねみつ)」「今井兼平(いまいかねひら)」はその四天王の二人となります。

兼光と兼平には「巴(ともえ)」という妹がいました。『平家物語』に女武将として幾度も登場する「巴御前」と呼ばれた女性で、絵巻物などには鎧兜を纏った凛々しい姿で、戦では男に決して負けない女傑(女丈夫)であったと言われています。「巴御前」の対局に居るのが義経の側室で、白拍子の「静(しずか)御前」になるかと思います。義経の亡くなった後、鶴岡八幡宮で御家人たちの前での義経を慕う舞で頼朝を激怒させたのは有名ですね。大事な人の結末は共に悲しいものでありますが、『平家物語』や『吾妻鏡』といった男性中心の物語を彩っています。

また、幼少の義仲(駒王丸)を助けた実盛にも悲しいエピソードがあります。実盛は平治の乱のときは源氏方で義朝や頼朝と一緒に平氏と戦います。しかし源氏が負け没落すると平氏政権の中で重用されます。その為、成長した義仲が平氏と戦う「倶梨伽羅峠の戦い」では平氏方として参加し、最後は義仲の部下に討ち取られています。出陣前からこの戦を最期と覚悟して、「若々しく戦いたい」と当時72歳であったので白髪を黒く染めていました。義仲の首実検の際にもすぐには実盛本人と分からなかったが、兼光からこの話しを聞いて首付近を洗うと白髪が現れ、実盛本人と判明してかつての命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は人目もはばからず泣いたといわれています。この話しも『平家物語』に載っています。

最期に義仲の墓所は朝日山義仲寺(滋賀県大津市)にあります。義仲寺は江戸時代の俳人・松尾芭蕉の墓があることでも有名です。芭蕉はかねがね義仲の生涯に思いを寄せ、生前から義仲の隣に葬ってほしいと門人などに言っていました。芭蕉は江戸在住でしたが、大坂の句会に出席した時に亡くなったので、弟子が義仲寺に葬ったとのことです。当時一流の文化人であった芭蕉をひきつける何かが義仲にはあったのでしょう。「判官(はんがん)びいき」と呼ばれるものかもしれないですね。私の場合は歴史の隙間に埋もれている人物や事件に興味が湧きますし、意外な一面や背景の方が凄く面白いので、そちらの方に眼がいってしまいますね。歴史は勝者側によって作られていくので、敗者からの視点を知ることが出来たら、今までとは違った人物や事件の見方が出来て、歴史が点ではなく線や面で見える感じがしますね。