さて今回は、鎌倉時代末期・南北朝時代から室町時代初期に異端児として華やかで強い光を放っていた人物について述べていきたいと考えています。その人物とは婆沙羅(バサラ)大名と呼ばれた「佐々木道誉(ささきどうよ)<別名・京極道誉(きょうごくどうよ)>」になります。おそらく皆さんは余り良く知らないのではないでしょうか。
最初に婆沙羅(バサラ)と聞いて皆さんが想像する意味は「奇抜」「派手」「傍若無人」と言った「傾奇者」に近い意味かもしれません。Wikipediaによると「身分秩序を無視して実力主義的であり、公家や天皇といった権威を軽んじて嘲笑し、奢侈で派手な振る舞いや粋で華美な服装を好む美意識」とあります。つまりは先例などを無視して傍若無人に振る舞い、派手な生活を送る武将たちのことを指しています。語源はサンスクリット語の伐折羅(ばじゃら・ダイヤモンドのこと)とも言われています。道誉の他には後程お伝えする尊氏の執事であった高師直(こうのもろなお)や土岐頼遠(ときよりとお)などが居て、彼らは単に派手な生活を送るだけでなく、戦いにおいては無類の強さと働きをしたという共通点がありました。
これらの人物の趣向や行動等は後の戦国時代の「傾奇者(かぶきもの)」、江戸時代の「旗本奴・町奴(はたもとやっこ・まちやっこ)」へと受け継がれていきます。皆さんも「傾奇者」と聞いて代表的な人物は良くご存じなのではないでしょうか。前田慶次郎利益(まえだけいじろうとします 通称・前田慶次)がその人です。「旗本奴・町奴」で有名なのは水野十郎左衛門(みずのじゅうろうざえもん)、幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべい)という人物になります。今回は佐々木道誉について述べていきますので、3名についてはまた別の機会に。
まず初めに佐々木道誉をご存じない方にとってはこの人は何者?という疑問があると思います。佐々木道誉、別名京極道誉は1296年近江国(滋賀県)の地頭・佐々木氏の分家京極氏に生まれます。その後母親の兄(叔父)である佐々木家当主の養子となり、佐々木氏の家督を継ぎます。元服の際には時の鎌倉幕府15代執権・北条高時から諱名として1字を貰い受け、「高氏(たかうじ)」と名乗っていました。後に高時が出家するときに共に出家して道誉と号しました。同じ名ということで足利尊氏(最初は高氏)とお互いがその存在を気にするようになったはずです。
道誉は鎌倉幕府を倒してからは一貫して北朝方(足利尊氏側)として南朝方(後醍醐天皇・新田義貞側)と戦っていますが、一度だけ北朝方から離れて南朝方に尊氏の意を汲んで従っています。箱根・竹ノ下戦いの最中に新田軍を裏切り足利軍に合流します。その際の裏切り方が新田軍の旗印は丸に一の字(新田一つ引)で、一方足利軍の旗印は丸に二の字(足利二つ引)なのですが、出陣の際には新田一つ引の旗を持って行ったのですが、いざ戦いが始まったらその旗に墨で一本の横線を引いて新田軍を裏切ったと言われています。一説にはこの前段の戦い(駿河国・手越河原の戦い)で逆のことをやって、足利軍を裏切ったとも言われています。つまり二つ引の真ん中を墨で塗って一つ引にしたということです、私はこの話をある書籍で読んだときに道誉のような目立つことや人とは変わったことが好きな人ならばかなり前から考えていたのではと思いました。機転が利き、頭の回転が速かったと言われている書籍もあるので凄く魅力的で人を引き付ける人物なんだろうと思ってしまいました。こんな部分も後の「傾奇者」に繋がっているように思えました。
道誉の活躍などもあって、尊氏は皆さんもご存じ通り、足利(室町)幕府を作り天下の実権を握りました。ただその幕府は幾つかの大きな勢力を持った守護大名の連合体でした。道誉もその一人で若狭(福井県)、近江、出雲、上総(千葉県)、飛騨(岐阜県)、摂津(大阪府)などの守護を兼任して一族を各地に派遣して勢力を高めていました。この連合体を纏めていた一つの要因が「尊氏のカリスマ性」でした。
歴史にご存じの方はこの尊氏が現代で言う「うつ病」だったことは有名な話しです。(最近は歴史研究家の呉座勇一氏によってその見解は否定されています。尊氏の行動は後醍醐天皇への忠誠心と弟・直義(ただよし)への兄弟愛で一貫していたとされています。)実は先程記載した道誉が一旦足利方を裏切っていた期間、尊氏は寺に入っていました。その後も出家や隠居を口にすることが多かったと言われています。尊氏は戦いに出陣すると負けなかった戦上手と言われています。逆に直義は戦下手であったと言われています。カリスマ性はこの戦上手な部分で武士の心を掴んでいたのかと思います。
足利幕府の政務はそのほとんどが直義と道誉や執事の師直などの一部の有力者(足利一族)によって運営されていました。師直は尊氏の執事ですから当然尊氏の意を汲んで政治を行おうとします。道誉も同様の考えでしたが、直義は政治についての能力は誰よりもあって両者の意見はぶつかっていました。まだ尊氏に師直を抑える力があった時期は何とか収まっていましたが、師直に同調する大名が多くなって抑えられなくなってしまった結果が「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」です。最終的な結果は直義が師直を殺害し、尊氏が直義を毒殺して尊氏が生き残り勝利者となっています。こんな状況でも道誉は尊氏側についています。以前私は道誉ほどの力や教養を持った者がどうして一貫して尊氏に従ったのだろうかと考えたことがありました。答えは出ていませんが、カリスマ性だけでない道誉にしか理解できない人間味があり、同じ名前(高氏)という一体感や助けたい、守りたいという当人同士にしか分からない何かがあったのではないかと、それを端的に表すと「親友(莫逆の友)」であったのかと思います。
尊氏の人間的な魅力を、個人的に親交のあった当代最高の僧侶である無窓疎石(むそうそせき)が言った言葉が「梅松論(ばいしょうろん)」の中で収められています。
1つ、心が強く、合戦で命の危険にあうのも度々だったが、その顔には笑みを含んで、全く死を恐れる様子がない。
2つ、生まれつき慈悲深く、他人を恨むということを知らず、多くの仇敵すら許し、しかも彼らに我が子のように接する。
3つ、心が広く、物惜しみする様子がなく、金銀すらまるで土か石のように考え、武具や馬などを人々に下げ渡すときも、財産とそれを与える人とを特に確認するでもなく、手に触れるに任せて与えてしまう。
以上のような自分には無いまるで正反対の鷹揚さと寛容さと無欲さで出来た尊氏の懐で世の中を渡るのは道誉にとって居心地が良かったとも考えられます。その為、尊氏が亡くなった後も親友の息子である二代将軍・義詮(よしあきら)を支え、義詮の絶大な信頼のもと幕府の最高実力者として幕府内の守護大名の抗争を調停します。その献身はさらに親友の孫、三代将軍・義満(よしみつ)まで続きました。
ここからは道誉の人間性についてお伝えしてみたいと思います。道誉は南北朝時代の社会的風潮である「婆沙羅」を好む一方で、連歌などの文芸や立花、茶道、華道、笛、さらには近江猿楽の保護者となるなど文化的活動を好み、幕政においても出自的(宇多源氏)として繫がりがある公家との交渉を務めていることなどから文化的素養を持った人物でありました。当時の関白・二条良基(にじょうよしもと)が撰した「菟玖波集(つくばしゅう)」には数多くの作品が入選しています。「道誉風(どうよふう)」と呼ばれる道誉の真似をした作風が流行したこともあったようです。また領地については運送の拠点となる地域を望むことが多く、流通や商業にも興味があったことが伺えます。当時悪党と呼ばれる集団や山の民、野伏とも関わり合いが多く、これらの集団に対して後援、または主従的な関係性であったということも考えられます。
因みに華道が確立した時期は室町時代の中期と言われていますが、道誉は自分の考えや流儀を「立花口伝大事」という書物に残しています。これは現存する華道の伝書としては最古のものと言われていて、後の華道の発展に大きな影響を及ぼしたと考えられています。
さらに、後に猿楽を大成したのが観阿弥(かんあみ)、世阿弥(ぜあみ)親子であることは文化史でも有名なことですが、世阿弥が著書「風姿花伝(ふうしかでん)」などには道誉が後援していた達人たちから世阿弥が教えを受けていましたので、その書物にも道誉の影響があったと言われています。
最後に現在放送中の大河ドラマ「麒麟がくる」でも信長が大名物(おおめいぶつ)と呼ばれる茶道具を集めていますが、その名品の一つ「九十九髪茄子(つくもかみなす)」という茶入という道具を商人から購入し、義満に献上したのが道誉であったと言われています。その後この茶入は信長、秀吉、家康と渡り現代に伝わっています。 最初に挙げた婆沙羅と呼ばれた他の二人の武将は傲慢な態度や言動などの振る舞いから、多くの敵を作り、それらの人達の手によって結果として滅ぼされていますが、道誉は敵を作りながらも最後は畳の上で往生しています。二人とは明らかに異なり自らの力を恃みすぎず、一番の権力者(尊氏)との信頼関係を生涯保ち、敵の敵を自分の味方にするような細心さや周到さがあったと思います。南北朝時代という日本史史上、唯一皇室が二つに分かれた時期において、混乱した時代だからこそ己の価値観や智謀で己の思うままに見事に生き抜いた武将が佐々木道誉であったと思います。