さて、今回は前回に引き続き、絶賛放送中の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公・渋沢栄一に関わる人物について、更に栄一の青年期に多大な影響を与えた「水戸学」について述べていきたいと思います。栄一の人生にとって影響を与えた人物は多く存在すると思われます。その中で最も身近で最初に影響を与えたのは、父親である市郎右衛門だと思います。この父親でなければ栄一は世に出ていない、世の広さを知らない人生を送っていたのではないかと思います。「子は父親の背中を見て育つ」とよく耳にしますが、今回の大河ドラマを見ていて、その通りだなと私は感じています。
栄一にとって肉親以外で最も影響を与えた人物は平岡円四郎(ひらおかえんしろう「以下、円四郎」)であると思います。
円四郎は1822年直参旗本・岡本忠次郎の子に生まれ、平岡文次郎の養子となりました。実はこの二人の父親が只者でない、かなりの行政官だったようです。実父は漢詩人として極めて高名で、「花亭詩集」などが著作にあり、天保の改革で有名な水野忠邦(みずのただくに)に抜擢され、勘定吟味役、勘定奉行を歴任しています。つまり幕府財政を差配してたのでした。
また養父も南会津の天領の代官として赴任し、天保10年の凶作に際して、江戸からジャガイモを取り寄せ、農民に作付けを指導して大成功を収め、南会津の飢餓から農民を救っています。そんな二人の父親の元で育った円四郎ですが、円四郎自身も幼き頃から優秀で幕府直轄の学問所「昌平坂学問所」に通い、そこでトップクラスの成績を収めていました。
円四郎は実父と面識のあった勘定奉行の川路聖謨(かわじとしあきら)に見出されて、川路から知古の藤田東湖(ふじたとうこ)や武田耕雲斎(たけだこううんさい)、さらに水戸藩藩主・斉昭(なりあき)の眼鏡に叶い、生涯の主君である一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)に仕えることになりました。
仕えるようになった円四郎は大河ドラマの中でも描かれていたように、主君である年下の慶喜の小姓(身の回りの世話をする役目)となり、逆に慶喜から躾を習っていたほどでした。しかし元来の要領の良さや賢さから次第に主君の顔色や声の張り、態度からその日の状態や考えを予測出来るようになって、慶喜から大変重宝されるようになり、慶喜も円四郎を大変信頼するようになりました。最終的には「家老格(家老と同等の格式を認められた者)」という役職になって、一橋家を中心になって運営していきました。暗殺された当時は「家老格」で、皮肉にも円四郎を暗殺したのは慶喜の出身である「水戸家」の者でした。どうして水戸家の者が水戸家出身の藩主の家の者を暗殺しなければいけなかったのか、それには水戸家が培ってきた「水戸学」が多大な影響を及ぼしていました。ではその「水戸学」とは何であったのだろうか。
「水戸学」とは前期水戸学と後期水戸学に分類されるんですが、前期は皆さんも良くご存じの徳川光圀こと水戸光圀が『日本通史(後の大日本史)』の編纂を始めたことからになります。この編纂は和歌、国文学、天文・暦学・算数(算術)・地理・神道・古文書・考古学・兵学なども関連し、編纂方針として「南朝正統論」を唱えたことで大きな影響を及ぼしました。また、後期水戸学が特に大きく発展したのが藤田東湖や会沢正志斎(あいざわせいしさい)などに寄ります。特に東湖は藩主・斉昭の側近として、藩政だけでなくその子・慶喜の教育係も担っていました。「尊皇攘夷」という言葉を最初に使ったのも東湖だと言われています。
では「水戸学」とはそもそもどんな学問であったのかというと、【幕府は朝廷より政治の運営を任された(委託された)もので、幕府権力の源は朝廷にあって、幕府よりも「朝廷」を敬うべき】だという「勤皇(きんのう)」「尊皇」が基本的な根幹にある学問です。その為、水戸藩では幕府と朝廷が戦うことになったら「朝廷」に逆らってはならないとされてきました。そういった考えが藩士一人ひとりに何代にも渡って植え付けられているために、幕末に外国船が襲来したり、外国に屈服し開国をした幕府に対して、その当時の幕府責任者であった井伊直弼の暗殺(桜田門外の変)などを引き起こしてしまった訳です。
実は明治維新後に明治天皇が近代日本の教育の基本方針として1890年に発せられた「教育勅語」には多大な影響を及ぼしました。戦前は楠木正成などと共に盛んに称賛され、日露戦争の203高地での戦いにおいて有名な乃木希典・陸軍大将が当時の皇太子(昭和天皇)に水戸学に関する書物を献上した後に自刃しています。(乃木希典は皇太子の教育係でした)
ただ、第2次世界大戦後においては「水戸学」が天皇制や日本軍国主義を支えた思想として否定的に捉えられるようになっています。
後年、栄一が円四郎の能力について述べたものがあります。
『平岡円四郎という人は一を聞いて十を知るという才を持っていて、客が来るとその顔色を見ただけで、何の用事で来たのかを察するほどのものであった。しかし、このような才を持つ人は、前途が見えすぎるあまり、他人の先回りばかりすることになるので、自然と他人には嫌われ、往々にして非業の最期を遂げたりするものである。平岡が水戸藩士に暗殺されてしまうことになったのも、一を聞いて十を知る能力にまかせて、他人の先回りばかりした結果ではなかろうかとも思う。』
この記述からも分かるように他人の考えや性質を見透かす能力に長けていたようでした。奇しくもこのような発言を大河ドラマの中では、栄一が西郷隆盛に会った際に言われていましたね。
この当時の一橋家は、様々な出身の人材が集まっていました。一橋家というより御三卿(ごさんきょう)と呼ばれた「田安(たやす)家」「清水(しみず)家」「一橋家」は8代将軍・吉宗が創設した新たな将軍家一門ではありますが、実際に纏まった領地はなく、その領地は全国の点在した天領(てんりょう、将軍家の領地)で、更に家臣も将軍家直参の旗本の出向組で基本的に構成されていました。しかし、一橋家は円四郎のような元々「代官」の家系で旗本に取り入れられた者、旗本出向組、水戸家からの出向組、更に栄一のような農民から取り立てられた者といった面子が集まっていました。様々な出自の者が集まっていたので、ある意味では固定観念に拘らない自由な雰囲気や意見が活発に出る場所であったように感じますね。円四郎や栄一がその才能を伸ばせたのもこう言った家風であったからかもしれませんね。
最後に以前にもお伝えしていますので、覚えている方もいらっしゃると思いますが、江戸幕府は水戸という江戸から至近距離の場所に「勤皇」第一主義の藩をそれも一族の中から作ってしまい、その人材を数代に渡って育成してきたのを見て見ぬふりをしていた。幕府の土台は幕閣の人材だけでなく資金や権力といった全てにおいて不足し、その極限にまで来ていました。そんな中どうにかしようとしていたのが、阿部正弘や井伊直弼などであったと思います。しかしそれらの者も居なくなると、歴史の必然なのか勤皇出身の慶喜を表舞台へと連れ出し、そして最終的に慶喜に幕府の終焉を託すのでした。
歴史に「if(もしも)」は無いのですが、円四郎と同じように慶喜は側近であった中根長十郎や原市之進を大政奉還(1868年)より前に暗殺によって失っています。これら3人がもし暗殺されずに慶喜の側近として働いていたら、歴史はどのように変わっていたのだろうかということをいつも考えてしまいます。この幕末はそういった人物が各藩に多くて、薩摩藩の赤山靱負(あかやまゆきえ)、小松帯刀(こまつたてわき)、長州藩の高杉晋作、吉田松陰、久坂玄瑞、大村益次郎、土佐藩の坂本龍馬、武市半平太など挙げたらキリがないですね。円四郎もその後も生きていたら、栄一にどういった影響を及ぼしたのかを考えるとワクワクしてしまう人物の一人であったと思われますね。