皆さん、こんにちは。今年もあと2か月となりました。季節は急激に冬に向かっています。全国各地の紅葉をニュース番組などで見ても、凄く綺麗だとその都度感動しています。一方で新型コロナウィルスの感染者数がまた増加していて、海外からの旅行者の中にはマスクを着用していない方も居るのを見ると、今後も感染者数は増えるだろうなと考えてしまいます。インフルエンザも蔓延する時期がこれからやって来るので、体調管理が大事ですね。家族や仲間を守るのは各自の心がけ次第なのかと思っています。

大河ドラマも残りあと数回と佳境に入っていますが、皆さんはご覧になっていますか。歴史好きの私としては主人公がマイナーな人物で、多くの登場人物が教科書にまれに出てくるくらいの人物であるので、そういった人物に脚光があたるのが凄く嬉しく感じて毎週観ています。

今回は数回前の放送にて討ち死にした「畠山重忠[はたけやましげただ](以下『重忠』)」についてお伝えしたいと思います。ドラマの中でも北条時政とその妻である牧の方の私利私欲によって無実の罪を着せられて、一族が滅亡しなければならなかったのは、この当時からほぼ全ての御家人が知っていました。滅亡の原因が幾つかあったのですが、最大の理由が「武蔵国留守所惣検校職」であったと考えられます。鎌倉幕府にとって「武蔵国」は関東御分国の一つで、将軍家が知行国主として支配して、一族や御家人を朝廷に推挙して国司に任じるものでした。幕府設立当初は9か国あったのですが、実朝時代には4か国に減少しています。幕府滅亡まで駿河、相模、武蔵、越後は御分国でした。この当時の武蔵国の国司(守護)は時政と牧の方の娘婿であった平賀朝雅(ひらがともまさ)であり、武蔵国に力を持っていた比企一族を滅亡させた後は、重忠が武蔵国留守所惣検校職にある為、畠山氏などの秩父一族の力を削いでいけば武蔵国は北条一族で支配できると考えたのでした。

更に時政と牧の方の嫡男である政範(まさのり)が京都へ使者としていった際に急の病で亡くなったこと、京都での宴席において重忠の嫡男重保と平賀朝雅が喧嘩(言い争い)をして、朝雅が面目を潰されたことを牧の方に伝えたことが原因の一つであるということも考えられますが、私は後に武蔵国や相模国が北条一族によって支配されたことをみると最初の理由によるのではないかと考えますね。

重忠は頼朝挙兵当初は、平家方の人間でした。畠山氏は坂東八平氏と呼ばれる秩父氏の一族で、秩父党と呼ばれ武蔵国に強大な勢力を持っていて、頼朝も挙兵時に味方してくれると期待していた武士団でしたが、秩父党内でも源氏に味方した者、そうでない者とその当時の利害関係によって分かれていました。坂東八平氏は元々源氏の郎党でした。それは頼朝の父である義朝の頃で、義朝が平治の乱で清盛に敗れた為、仕方なく平家に仕えるようになっていました。

頼朝が石橋山の戦いに敗れ房総半島・安房国へ渡った際に、頼朝の元へ馳せ参じます。2人の出会いにまつわる逸話が、軍記物語「源平盛衰記」(げんぺいせいすいき/げんぺいじょうすいき)に残されています。源頼朝が鎌倉を目指して進軍していたときのこと。重忠は長井の渡し(ながいのわたし:現在の神奈川県横須賀市)において、源氏の旗印/旗標(はたじるし)である白旗を手にして、頼朝の前に姿を現します。驚いた頼朝が、重忠に白旗を掲げている理由を厳しく追及。すると重忠は、『この白旗は、後三年の役(ごさんねんのえき)の際、祖先の平武綱(たいらのたけつな)が、源義家(みなもとのよしいえ)殿より賜った由緒ある物です』と返答。これに感心した頼朝は重忠を許し、相模入りの先陣を命じたのです。

重忠が有していたのは、凄まじい戦闘力だけではありません。それは、主君・頼朝に対する忠誠心でした。それが窺えるのが1187年、伊勢沼田御厨(いせぬまたのみくりや:現在の三重県松阪市)の代官が働いた不正事件が挙げられます。同地の地頭(じとう)を務めていた重忠は所領4か所を没収され、千葉胤正(ちばたねまさ)に身柄を預けられることに。これが発端となり、重忠は梶原景時(かじわらかげとき)の讒言(ざんげん:事実を曲げるなどして、その人物を目上の人に悪く言うこと)によって、頼朝への謀反を疑われてしまいます。

このとき、重忠は景時より、謀反の意思など抱いていないことを神仏に誓う起請文(きしょうもん)を書くように促されるも、「もとから逆心などないのだからその必要はない」と突っぱねました。さらに重忠は、疑いを晴らすために自刃しようとしたのです。この騒動を聞いた頼朝は重忠を許し、再び信用したと伝えられています。

そののち重忠は、頼朝が1190年と1195年の2度に亘って上洛する際に、行列の先頭を務めています。畠重忠がこのような名誉にあずかれたのは、頼朝に対する忠誠心が認められていたことの表れだと言えるのです。

加えて重忠は、1186年に義経の側室「静御前」(しずかごぜん)が「鶴岡八幡宮」(現在の神奈川県鎌倉市)において、頼朝の前で「白拍子」(しらびょうし)を披露したときには、銅拍子(どびょうし)を打って伴奏を務めたと伝えられています。

多数いる家臣の中で重忠が頼朝から特に高く評価されていたのは、武勇に長けていたのみならず、この静御前の逸話から分かるような教養を持ち合わせていたことも、その一因だったのかもしれません。

鎌倉幕府が成立し、1192年に頼朝が征夷大将軍に就任して以降、同幕府の有力御家人として活躍していた重忠。1199年、頼朝が53歳で亡くなる間際には枕元に呼ばれ、わずか18歳で2代将軍となる源頼朝の長男・源頼家(みなもとのよりいえ)の補佐役を遺託されます。これもまた、頼朝が重忠に絶大な信頼を寄せていた証しだと言えるのです。

そんななか、頼家を補佐する「13人の合議制」のメンバーである有力御家人・北条時政(ほうじょうときまさ)が、頼家の弟であり次期将軍・源実朝」(みなもとのさねとも)の後見人となります。

さらには、同じく13人の合議制のひとりであった比企能員(ひきよしかず)を討つなどして、権勢を振るうようになっていたのです。

ここからは先ほどでもお伝えした内容を含む「畠山重忠の乱」と呼ばれる事件の流れになります。

1204年には、重忠の子・畠山重保(はたけやましげやす)が、北条時政の後妻・牧の方(まきのかた)の娘婿・平賀朝雅(ひらがともまさ)と口論になります。これを知った牧の方は夫・北条時政に、重忠・重保父子が謀反を計画していると讒言。

1205年6月22日の朝には重保が、時政の命を受けた三浦義村(みうらよしむら)により、由比ヶ浜(神奈川県鎌倉市)で討ち取られてしまいます。実はこの3日ほど前に、畠山重忠は従兄弟の稲毛重成(いなげしげなり)から「鎌倉に異変あり」という虚偽の報を受け、重保を先に鎌倉へ行かせていたのです。

何も知らない重忠は、わずか134騎の軍勢を率いて二俣川(横浜市保土ケ谷区)まで来ていました。しかし、重保が謀殺され、自身にも数万人に及ぶ討伐軍が差し向けられていることが分かると、家臣達から居城の「菅谷館」(すがややかた:埼玉県比企郡、別称[畠山館])に一旦戻り、態勢を整えたあとに戦うように進言されます。

ところが重忠は、「重保が亡くなった今、お家のことなど忘れるのが武士。命を惜しんで引き返しては、謀反の企みを持っていたと後世で言われてしまう。武士の誇りを汚したくない」と戦うことを決意。重忠の軍勢は、北条氏の大軍を目の前にしても怯む(ひるむ)ことなく、4時間に及ぶ激戦を繰り広げたのです。最終的に重忠は、愛甲季隆(あいきょう/あいこうすえたか)の放った矢に当たり、42歳の若さでその生涯を閉じました。

この「畠山重忠の乱」において、圧倒的に不利な状況でも逃げることなく勇猛果敢に戦った畠山重忠は、やはり「坂東武者の鑑」と称するに値する人物だったと言えるのです。

実は畠山一族の悲劇はこの後も起こります。乱の8年後の1213年9月19日、日光山別当の法眼弁覚より、幕府に「故重忠の末子である大夫阿闍梨重慶が、当山の麓に籠居して牢人を集め、また祈祷を行っており、謀反を企てている」という使者が送られる。将軍・実朝の御前に報告され、その場に祗候していた長沼宗政に重慶を生け捕るように命が出されると、宗政はその日のうちに郎党9名を連れて下野国に出発した。

7日後の26日、下野国から鎌倉に戻った宗政は重慶の首を斬って持参した。将軍・実朝は「重忠は元々罪なくして誅殺された。その末子の法師がたとえ陰謀をめぐらしたとしても、何事があろうか。命に従い、まずその身を生け捕りにして陰謀の如何によって処分すべきであった」と述べて嘆き、宗政の出仕を止めた。それを伝え聞いた宗政は眼を怒らし「この件は叛逆の企てに疑い無し。生け捕って参れば、女等の申し出によって必ず許しの沙汰が有ると考え、首を梟した。今後このような事があれば、忠節を軽んじて誰が困ろうか」と述べたといいます。

平姓畠山氏はこの時をもって完全に滅亡しますが、重忠の正室であった女性(時政の娘)が重忠の死後、足利義純(あしかがよしづみ)に嫁ぎ、源姓畠山氏が始まっています。この源姓畠山氏は後に室町幕府において、三管領の一家として幕府の中枢で活躍する一族になり、現代にもその血筋は続いています。